前畑さんは橋本町(現・橋本市)出身。
昭和6年(1931)1月に母、同年6月には父が相次いで病没。
その悲しみの中、昭和7年(1932)のロサンゼルス五輪・女子200メートル平泳ぎで、
オーストラリアのクレア・デニス選手にわずか0・1秒差で敗れ、銀メダルに甘んじた。

帰国後、前畑さんの学ぶ名古屋の椙山(すぎやま)女学園の椙山正弌(まさかず)理事長から
「あきらめるな」と激励され、次期大会への出場を決意。不断の努力を重ねた。
その結果、昭和11年(1936)のベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎでは、
ドイツのマルタ・ゲネンゲルに1秒差をつけ、見事金メダルを獲得。

石碑の最上部には、余白部分を示す張り紙があり、
中央に大きく「前畑秀子の母」、右にやや小さく「第十四回国際オリンピック優勝記念」、
左に小さく「昭和七年九月二十日 椙山女子専門学校長 椙山正弌 建之」と書いた張り紙をしていて、
その前で前畑さんがにっこり笑って写っている。

ところが実際、前畑さんが優勝したのは、石碑建立の4年後のベルリン・オリンピックなので、
「優勝記念」「昭和七年」と刻まれるのは、まったくつじつまがあわない。
それでも現在の顕彰碑には、張り紙した表記通りの文字が刻まれていた。

つまり、この写真は、椙山理事長が前畑さんのロス五輪優勝を確信したうえ、
両親を亡くした前畑さんの心情をも汲み取り、優勝後、余白部分を埋める計画のもとに、
「前畑秀子の母」などの文字は刻んで、早々と建立し、記念撮影したものらしい。

結局、この時は銀メダルに終わり、除幕もできなかったが、
次のベルリン五輪では、見事、念願を達成。
余白部分には「顕父母孝之終也」の文言を刻んで除幕。
前畑さんは椙山理事長とともに優勝報告したという。

この「顕父母孝之終也」という文言は、吉田松陰の日記にある「身体髪膚(しんたいはっぷ)、之(これ)を父母に受く。
敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、
名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり。」から引用されていた。

阪口さんは「ご両親を亡くした後も、親孝行したいという心は深く、
不屈の精神で頑張られた前畑さん。
その前畑さんを、終始支えた椙山理事長。何の変哲もなさそうな写真ですが、
実は、昭和初期のオリンピック・金メダリストと、
そこに展開した人間愛を物語る、歴史的な写真です」と話した。

http://hashimoto-news.com/news/2014/07/19/22644/