山内リエ

1936年、女学校3年15歳の夏を過ぎると、恵まれたバネで飛躍的に記録が伸び、
11月に広島市で行われた大会で、走高跳の当時日本最高記録1m52を楽々と飛び、
1m55の日本新記録をマーク
前年1935年の記録は全くなく、彗星のように現れた名もない地方の一女学生が全日本の覇座に座ったことで、
その出現は次期オリンピック東京大会(1940年)のホープとして騒がれる[9][10]。

以降、三段跳、走高跳、走幅跳の日本記録を次々に樹立
呉の生んだ"スーパーウーマン"と称されたが[坐骨神経痛の治療もあって1938年誘われて
愛知県の中京高等女学校に転校し、中京女子体育専門学校(現・至学館大学)を1939年卒業
。卒業後、同校の教員を務めた後、戦中は一時期、呉市に帰郷し
終戦後の1945年9月、社員の3分の1を原爆で失った中国新聞社に入社し文化部記者として健筆を振るう。

同年12月に東京で行われた日本陸上競技選手権戦後の復活大会は広島代表として参加した

1946年、京都の菊花女子専門学校に移り同校の教師を務める
この後、1947年12月から1960年10月まで毎日新聞大阪本社運動部に新聞記者として勤務した
このため1948年以降の所属は京都アスリートクラブ。

この間、1939年走高跳で日本の女子選手として初めて1m60を突破[
第二次大戦をはさんで1939年から1946年にかけて日本陸上競技選手権走高跳四連覇を含む優勝6回
これは現在も種目別の日本記録
走高跳は自身の日本記録を1m63まで5回に渡り更新した

戦後の1946年に行われた第1回国民体育大会の走高跳で1m61の世界タイ記録を出す
これは2位選手に31cmの大差をつける圧勝であった。