>>19
ただ地方への公共事業が問題あるとすれば、それは先にも話したように70年代以降の三全総、そしてその後の、特に日米構造協議による公共事業増加が先便を付けたいわゆるハコモノの建設。
これらを問うべきであり、だけど70年代以降の三全総にしても、それ以前は都市対地方の投資比率では都市が上回っていて三全総に合わせてちょうどこの頃から地方が重視されてきた点。

そしてまた日米構造協議による公共事業増加も、米国の要求によるという点、景気調整役として機能した点、これらのことを踏まえると先に論じられていたような「地方の甘え」というようなことへは直結しないし、
日米構造協議による公共事業増加に限っては「地方が甘えて」いたかどうは関係ないと結論づけたはずだ。

ただ現在において、公共事業と地方との結びつきは地方の自立に関わる喫緊の問題であることも確かであって、このことをただ経済史や外交史を踏まえずして「甘え」と非難することは、
先に話したように東京が公共事業によって整備された社会インフラと突出した行政投資によって得られた誘因力よって貴重な労働力を獲得し、他と比較してそれを維持していることも重ねて考えれば、「甘え」という批判は身勝手な自己中心性でしかない。

その自己中心性の修正を促すために、ノブレスオブリージュの精神を例示したのであり、それを大きな政府かどうかという国家機能の問題と捉えて混同するのは、(責任放棄の)ごまかしか頭が悪いかどっちかだろうってことだ。

地方が甘えてる、地方は自立しないといかん。
東京の人間がそう言うなら、自らが容易に得ている地方からの資源を自ら制限をかけることがあっていいじゃないか。
例えば極論かもしれないが
人口流入を防ぐ(その分の減少に困ったら移民でカバーするなり自分で補充しろ)
電力を自給調達する(原発が必要なら電力消費者として供給する側への責任性を明確にしろ)
沖縄の米軍基地の負担軽減のために貢献できることをやれ(米海兵隊をなくし「それでも同じ機能が必要」というなら都民に徴兵制を敷いて担わせろ)

つまり、こうした身を削る措置をなくして、地方だけに改革を迫るのは完全に筋違いってことだ。