短い言葉ほど強く見える時代である。
数秒で読める文章、ひと目で理解できる結論、流し見の途中でも刺さる刺激。
画面を流れていく無数の言葉の中で、長文はしばしば「読む側の負担」と見なされる。
そんな空気を象徴するように、「つまり長文は基地外」という書き込みを見かけることがある。
乱暴な一言だが、そこには現代的な疲労感も滲む。
延々と続く自分語り、論点の見えないお気持ち表明、熱量ばかり高い文章に辟易した経験を持つ人は少なくないだろう。

しかし、本来、文章の長短と正気は無関係である。
夏目漱石も、丸山眞男も、長い。
裁判の判決文も、研究論文も、誰かへの手紙も長い。
人は複雑なことを説明しようとすると、どうしても言葉を重ねる。
むしろ短さだけを絶対視すれば、「わかりやすさ」に削り取られるものも増えていく。
一方で、長文を書く側にも錯覚はある。
長く語ることが、そのまま深さや正しさを保証するわけではない。
読む相手への配慮を失った文章は、独白になりやすい。
結局、問題なのは文字数ではなく、相手に届こうとしているかどうかなのだろう。

「三行でまとめろ」という文化は、効率を生んだ。
同時に、「三行では語れないこと」を軽視する空気も育てた。
怒り、孤独、思想、後悔。人間の感情は、本来あまりに要約しにくい。
短文が悪いのではない。
長文が偉いわけでもない。
ただ、言葉を削る技術ばかり称賛される時代に、遠回りして語ろうとする人間まで切り捨ててしまえば、社会そのものが少しずつ薄くなる。
そんな気もするのである。