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研究者として
大阪大学経済学部教授を務めていた本間正明の誘いで[8]、
1987年(昭和62年)、大阪大学経済学部助教授に就任[15]。以降研究者としての道を歩む。
1989年(平成元年)、日本開発銀行を退職、ハーバード大学教授を務めていたジェフリー・サックスの誘いでハーバード大学客員准教授及び国際経済研究所客員フェローに就任した[15]。
1990年(平成2年)に慶應義塾大学総合政策学部教授を務めていた加藤寛に誘われ、慶應義塾大学総合政策学部助教授に就任[15]。
1993年(平成5年)にアメリカ合衆国に移住。
この年に出版された小沢一郎の日本改造計画の執筆に参加。
コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクールにある「日本経営研究センター」(所長はパトリック・ヒュー教授)の客員研究員になる[16]。
その後、母校の一橋大学に前述した論文『開発研究と設備投資の経済学』を提出し経済学博士の取得を試みたものの、
大学の教授会では「あまりに初歩的すぎる」などとの意見が出て教授会での審査に不合格となった。
この教授会の決定について、竹中の指導教官だった山澤逸平は、「これは一橋大の失態である」と後年述べている[17]。
1994年(平成6年)、大阪大学にて博士(経済学)の学位を取得した(学位論文『日本経済の国際化と企業投資』)。
→「Category:博士(経済学)取得者」を参照
1996年(平成8年)に帰国、同年、慶應義塾大学教授に就任。
1997年(平成9年)、日本船舶振興会(現日本財団)の交付金で設立された
基本財産397億円のシンクタンク「国際研究奨学財団
(その後、1999年〈平成11年〉から東京財団に改組)」の理事に就任した。
1998年(平成10年)に国際研究奨学財団常務理事、
1999年(平成11年)に東京財団理事長に就任した。
1998年(平成10年)に東京財団内に設けられた「インテレクチュアル・キャビネット政策会議」では、
(影の)総理に香西泰(後に政府税制調査会会長)、
官房長官に島田晴雄(慶應大教授)と竹中、
財政担当大臣に本間正明(大阪大教授、後に政府税制調査会会長)と吉田和男(京都大教授)、
金融担当大臣に池尾和人(慶應大教授)と岩田一政(東京大教授、後に日本銀行副総裁)らが名を連ねた。
これは実質竹中による政策会議で、
自民党議員との交流会も頻繁に開かれ、
竹中の紹介で小泉純一郎と会ったメンバーも多くいた[8]。
また日本興業銀行経営アドバイザーや、フ
ジタ未来経営研究所(日本マクドナルドのシンクタンク)理事長、
アサヒビール社外取締役を歴任した。