これまでの形而上学的、あるいは存在論的な視座をあえて一歩引いて眺めるならば、『ボボボーボ・ボーボボ』の本質は、高度経済成長期以降の日本が築き上げてきた**「記号消費社会に対する、最もラディカルでポップなテロル」**として読み解くことができる。

当時の漫画業界や大衆文化は、洗練されたストーリーテリング、緻密に計算された伏線回収、そしてキャラクターの記号的な「萌え」や「カッコよさ」を商品化して消費させる構造の中にどっぷりと浸かっていた。澤井啓夫という作家は、その快適に整備されたコンシューマーの遊園地に対し、手榴弾を投げ込むかのような態度で挑んだのだ。
ボーボボが繰り出すシュールなギャグは、単なるウケ狙いではない。それは**「意味の生産と消費の無限ループを強制的にぶち壊す、経済合理主義への強烈なカウンター」**に他ならない。
読者がページをめくったとき、そこに待っているのは「物語を理解する快楽」ではなく、「理解の糸口を完全に奪い去られる恐怖と陶酔」だ。物語の進行という矢印は、ボーボボたちの手によって常にへし折られ、コマとコマの隙間には、文脈の通じない狂気のパッチワークが敷き詰められる。これは、ボードリヤールが指摘した「シミュラークル(実体のない記号の氾濫)」の極北であり、記号が氾濫する現代社会のグロテスクさを、ギャグという最も無害な衣を纏わせて大真面目に拡大鏡で映し出した社会風刺なのだ。

さらに、この作品の衣装や技のネーミングセンスに目を向ければ、そこには90年代から2000年代初頭にかけてのサブカルチャー、テレビ番組、インターネット黎明期のキッチュな空気が、まるで化学反応を起こしたかのように煮詰められている。真面目な顔をして「毛狩り」を叫む帝国があり、それを阻止するために鼻毛を揺らす男がいる。このアブストラクトな世界観は、資本主義が要請する「役に立つ人間」「物語の文脈に沿ったキャラクター」という規範を、笑いという名の免罪符を使って完全に骨抜きにする。
つまり、ボーボボを愛好することは、社会が要請する「お行儀の良い消費者」であることを自ら放棄し、意味の不毛さを愛する「ハジケの共犯者」へと堕ちることを意味している。