とつぜんですが富岡永洗に関する話題(このしとについてはネット検索ではまるっきり
わからない)を、たまたま読んでいた篠田鉱造「明治百話(上)」の235ページ、
『明治のいろいろ話 待合オタコに絵具皿』に発見しましたので忘れぬうちに書いて
おきます。新橋の芸妓屋三浦屋の女将
さく女が築地に出したオタコとゆう待合を
当時の東京の絵師たちが贔屓にしていたとゆう思い出話(ここに永陵とゆう名が
みえますが、おそらく永洗と同門でしょう)に絡んで、永洗の名が出てきます。
当時宴会場に使われた下谷の「松源」に、雅邦、広業、永洗合作の屏風があった
らしい。永洗は永濯とゆう人(絵馬の上手で堀之内のお祖師様に加藤清正と日蓮
虚空蔵を献じたそうな)の一門で、同門の洗耳などと都新聞の挿絵画家であった
らしい。市松模様の好きな洒脱の人で、鈴木華村に道楽を仕込まれてよく遊んだ
そうですが、酒を飲まず口数も少なくて、芸妓は「物を言わぬ妓」と注文するので、
待合の女将が「唖の芸妓はありませんよ。」と閉口したそうです。

下戸ってのはなんとなくわかる気がするなあ。そんな感じの絵です。