2026年8月、昭和天皇が敗戦直後に語った『独白録』の「台本」に相当する新資料『天皇の戦争責任に関する研究』(通称:戦責研究)が発見されました。 [1, 2]

この資料の発見により、『独白録』が単なる天皇の個人的な回想(苦衷の吐露)ではなく、極東国際軍事裁判(東京裁判)を見据えて外務省と宮内省が共同で綿密に作り上げた、天皇免責のための政治的な弁明書であったという成立過程が浮き彫りになりました。 [1, 2]

この歴史的発見と、外務省による戦争責任回避(天皇免責)の論理構築の全貌について詳しく解説します。

1. 「台本」発見の経緯と資料の概要

発見された資料:高柳賢三氏が執筆した『天皇の戦争責任に関する研究』(表紙に手書きで「戦責研究」と記載)。 [1, 2]

仕様:A4判198ページの和文タイプ清書。欄外に「外務省」の印字がある「大日本帝国政府」の公用罫紙が使用されている。 [1, 2]

所蔵元:高柳氏がのちに学長を務めた成蹊大学の図書館。 [1]

執筆者:高柳賢三(東京帝国大学法学部教授・英米法学の第一人者)。

当時、幣原喜重郎内閣の吉田茂外相から外務省法律顧問に任命され、外務省の「理論的司令塔」として活動していた人物です。 [1, 2]

2. 外務省による「戦争責任回避」の3大論理

発見された文書には、連合国(GHQ)の国際裁判対策として、天皇の責任を否定するための極めて体系的な論理が構築されていました。その根本方針と論理は以下の通りです。 [1, 2]

�@ 政府・軍部への全責任転嫁

ポツダム宣言を受諾した以上、日本側として「戦争を誘発した政策の誤り」自体は認め、裁判でも無駄な弁明は行わないと定めています。その上で、政策の過誤や決断の責任は「すべて政府および軍部(臣下)にある」とし、責任のすべてを天皇以外に帰結させる論理を立てました。 [1, 2]

�A 立憲君主制の厳格な適用(ロボット説の補強)

明治憲法下における天皇は「総攬者(最高権力者)」と定められていましたが、実際の運用では「国務大臣の輔弼(助言と承認)に従う立憲君主」であったことを強調しました。つまり、天皇は自らの意思で開戦を決めたのではなく、憲法上の慣例に従って「政府・軍部が決定した上奏を拒絶できなかっただけである」という不可抗力を論証しました。

�B 英米法発想による体系化

英米法の権威である高柳氏は、連合国(特に米国)が理解・納得しやすい法論理を用いて免責論を組み立てました。資料に不足があり論理的に説明しきれない部分(天皇が具体的にどう関与したか)を補強するため、天皇自身に当時の経緯を直接証言させた記録、それこそが『昭和天皇独白録』になったと推測されています。 [1]

3. 『戦責研究』と『独白録』の密接な一致

1990年に公表された『昭和天皇独白録』は、昭和天皇が1946年に側近(寺崎英成ら)に語った談話録です。これまで「天皇が自発的に胸の内を明かした歴史記録」というイメージが一般的でした。 [1, 2, 3]

しかし、今回発見された外務省の『戦責研究』を比較すると、以下の点で「独白録の台本・骨格」であったことが判明しました。 [1, 2]

項目と構成の合致:天皇が戦争責任を問われかねない重要局面(張作霖爆死事件、二二六事件、三国同盟、日米交渉、開戦の決定など)の項目立てや論理展開が、両者でほとんど完全に重なっています。 [1, 2]

共同作成の証明:これまで宮内省(宮内庁)の独断や、天皇周辺の側近だけで進められたと考えられていた『独白録』の作成に、外務省(吉田茂外相・高柳賢三氏)が組織的・主導的に関与していたことが初めて裏付けられました。 [1, 2]

まとめ:この発見が持つ歴史的意味

この資料の発見は、昭和天皇の『独白録』が、純粋な「独白(メモワール)」ではなく、「天皇制存続と天皇免責」という国家最大の危機を乗り切るために、日本政府(外務省・宮内省)が総力を挙げてシミュレーションし、天皇に演じさせた政治的な『弁明のシナリオ』であったことを決定づけるものとなりました。 [1, 2]