Eden Lostくんの新しい香ばしい日記
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FF14に「本当に」上手いプレーヤーは存在しない

「本当に」上手いプレーヤーは存在しません

「本当に」というエポケー〔判断留保〕された価値基準自体が主観的であり、無限の解釈性を内在しているからです


あるプレーヤーという意味〔シニフィアン〕を私たちが認識するとき、記号は現象です

つまり、カントの認識論であり、私たちは木の周りに並んで見ています

しかし、どの木を見ても、「木」という本質は理解できても、木を見る角度が違うために、万人の網膜には異なる木の影像が投射されるのです


そして人々は自分にしか見えない幻に対して幻の<評価>をラベリングします(幻に対する行為は幻になります)

こうして、かくも虚しき論争、「本当にうまいプレーヤーはかくかくしかじかである」と云う主観命題が生じるのです


あるプレーヤーは経験値がと云い、またあるプレーヤーは人間性能がと云い、他のプレーヤーは人格がどうのと云います

しかし、こうした所作は愚かであるにしても、ひとびとに必要な自己準拠〔ゼマンティーク〕として理解されます ひとは何かしらの色眼鏡をかけていなければ世界を<理解>できないのです


こうした無限の解釈性を超越する可能性を秘めたパラダイムとしてはニーチェです

ニーチェの解釈学は解釈に於いて、その理解性を限界づけます

つまり、Aを理解し得るのは<天才>であるBである といった図式です

天才が天才を理解し、天才的に世界を変革するという主張には頷けます


しかし、ドストエフスキーの罪と罰的論考のように、「本当に」天才であると証明することは不可能です

またしても主観の循環論がどこまでもついてまわるからです

それはブルデューにおける差異と卓越のように、権力性が付随した際にのみ首肯できますが、またしても現象性が立ち上がり、別の角度から「本当ではない」つまり「欺瞞である」というビリヤードが飛んできます


こうした矛盾はそう容易に解消できるものではありません

無理に解消しようとすれば抑圧を生みます

いっそ我々が主観の限界性に立ち返って、確実で曖昧な境界線を他者との地平融合としてとらえるスタンスが有効と云えるでしょう