それぞれの時期の理2や国公立理系の定員まで考慮するのは不可能なので、これだけの
データを根拠に推定すると、理2(1954年)は理2(1979年以降)の良くても上位50%
弱程度の学生の質と同等と推定される。この状態で、理2(1954年)⇒東大医は3倍程度。
理2(1979年以降)⇒東大薬は4倍程度の選抜率であるから、理2(1979年以降)の学生
にとって⇒東大医(1954年)を突破するには1.5倍程度の関門に過ぎなかったと推定
される。これは、1960年前後と1964年の旺文社「等」のデータで理1≧理3であった
こととおよその整合性がある。新制大学に移行後しばらく理学部2年修了で4年制医学部
受験の時期に医学部落ちの理学部留年が問題になったと言っても、実際の医学部が
非医理系に比較して、1970年以降の様に著しく難関であったわけではないと結論しても
違和感はないと思われる。

なお、理2(1954年)は東大医だけではなく他大医も受験可能であった一方、国医が
複数受験可能だったかは不明と言う2点未考慮の項目がある。もし、複数受験が可能
だったとすれば、東大医のみならず千葉医も理2で埋め尽くされたはず。これは、90年代
のある時期、東大と京大W受験可能な時代があって、W合格者の東大への集中が問題に
なったことからも推定される。

しかし、実際は千葉文理・理⇒千葉医が大勢を占めている。医科歯科は予科が千葉文理・理
に改組されたので千葉文理・理に加え、理2がいて当然。このことから、@少なくとも
東大医と千葉医の同時受験は不可能か、Aもしくは理2から東大医に進学できない場合、
他大医よりも東大・理薬農が当時は選好されたと考えられ、それほど医学部人気が高かった
わけではないと推定される。これもまた、私たちの世代で同様の事例がある。東大薬で
院落ちは研究生として東大薬の研究室に残り、次の年に院を再受験する一方、多くの
国公立薬の院は内部進学に加え、理科薬が院の定員を埋めていた。東大薬なら国公立薬の
院試で、理科薬の後塵を拝する可能性は低いが、まったく競合していなかった。