2018年8月17日(金) 朝日新聞名古屋本社 声
夏が来るたび思う「引き揚げ」 無色 内田三和子 (東京都 83)

 夏が来るたび、「引き揚げ」を思う。1945年8月15日、私は日本統治下の京城(現ソウル)で
玉音放送を聞いた。治安が悪化し、9月、母は私ら子ども5人を連れ、本土に引き揚げることにした。

 京城駅は引き揚げ者でむせ返っていた。貨車に乗った時、私は足を踏み外し、背負っていたリュックが
貨車とホームの隙間に引っかかり宙づりに。私の頭をける人、つまづく人。私は気を失った。

 気がつくと、汚物の臭いが充満し、怒号が飛び交う貨車の中。具合が悪くなった。ある駅で貨車の
外鍵が開けられ、皆、争って外へ出た。私の後ろで乳児を抱いていた女性が倒れた。「こいつ死んで
いるぞ」との声。

 やっと釜山で引き揚げ船に乗れたが満員の船底の片隅。気分が悪くなり甲板に出た私の眼前で、
髪を振り乱した女性が「ギャーッ」と叫び、男の子を海に放った。その子の悲鳴はすぐに海に消えた。

朝鮮が日本の植民地だとは知らず、不自由なく暮らしていた私。歴史の審判を受けての引き揚げ
だったと悔恨の念にかられる。当時、10歳だった。

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 凄惨な体験をしたのだなと同情しながら読んで来て、最終段落で「同情」の意味が変わります。
その凄惨な体験は、本当に「それだけ」だったのでしょうか?