産経抄 8月9日

井上ひさしさんの小説『四千万歩の男』は、約4千万歩あるいて日本地図を完成させた伊能忠敬の人生を描いたものだ。先月93歳で亡くなった植物生態学者の宮脇昭さんは、まさに「四千万本の男」だった。

▼「今は儲(もう)かっていても、このままでは、みなさんの命が危なくなる。『本物の森』をつくるべきだ」。公害問題が深刻化していた昭和40年代の中頃、当時横浜国立大学の助教授だった宮脇さんは、企業向けの講演会で訴えていた。

▼これに共鳴したのが新日本製鉄だった。各地の製鉄所で始まった森づくりは、他企業や自治体、やがてはボルネオやアマゾン、中国など海外へと広がっていった。宮脇さんが植えた木の総数は、4千万本を超える。

▼宮脇さんは、岡山県西部の農家に生まれた。一日中草取りに追われる農家の苦労を取り除こうと、当初は雑草の生態を研究していた。転機となったのが、30歳のときの留学である。人からの影響がすべてなくなった時、その土地の自然環境は最終的にどんな植生を作り出すのか。ドイツ国立植生図研究所のチュクセン教授から、「潜在自然植生」という新しい理論を現場で叩(たた)きこまれた。

▼帰国した宮脇さんは、古い屋敷林や鎮守の森に潜在自然植生が残っていることを知る。本物の森づくりはまず、その土地本来の潜在自然植生を調べ上げ、複数種類の木の苗を密に植える。この「宮脇方式」により、わずか十数年で多様な生態系を再生させることができるという。

▼昨日、東京五輪は閉幕した。五輪を契機に世界中の人が、「一人三本、一〇本と植えて、自分の足元から森をつくったらどうなるでしょう」。2年前に刊行した自伝『いのちの森づくり』(藤原書店)の序文で夢を語っていた。