産経抄 8月22日

少年は、人波の中を恐る恐る歩いていた。向こうから来る誰かの肩や肘が、すれ違いざまにぶつかっては消えてゆく。香水の甘い香り、店先から漂う食べ物の香ばしい匂いが、鼻先をくすぐっては流れ去ってゆく

▼〈全方位から聞こえてくる話し声、電車や車の音―。東京のにおい。東京の音。12歳の春、僕はたった1人で上京した〉。詩情の潤いと、文学の薫り高ささえ覚える一節は、全盲の競泳選手、木村敬一さん(30)の自叙伝『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)から拝借した

▼東京の盲学校に入るため、郷里の滋賀県から上京した折の回想という。病気のため2歳で視覚を失った木村さんは、光も色も知らない。「人の情報源は視覚が8割と言われています。それがない僕にとっては、音とにおいの占めるボリュームが大きくなりますね」

▼「闇」は、自身が長く生きてきた世界でもある。暗い、怖い、希望がない―。目の見える人が思う「闇」と木村さんの「闇」は違う。〈暗闇の中は、決して絶望にあふれてなんかいない。腕を動かして、足を動かして(中略)どこまでも、前に進むことができる〉

▼自叙伝出版の裏には、障害者でありパラアスリートである人生が、「普通の世界とかけ離れた物語ではないことを知ってほしい」との思いがある。周りの温かな手に支えられた道のりは、「あなただから乗り越えられたんでしょう―という物語ではないんです」と

▼本稿はコラムの体裁に目をつぶり、取材で出会った青年を紹介した。読者諸賢には深謝する。彼の言葉をもう一つ。「自叙伝を書いて思ったのは、僕は自分の人生が好きで、ずっと、この物語の主人公でいたいということ」。木村さんも出る東京パラリンピックは、24日に始まる。