産経抄 10月4日

高度成長のきっかけとなり、日本を「経済大国」へ押し上げた「所得倍増計画」の舞台裏では、何が起こっていたのか。作家の沢木耕太郎さんは、『危機の宰相』のなかで、3人の立役者にスポットを当てて、その内実をドラマチックに描いた。池田勇人元首相、経済学者の下村治、池田の後援会「宏池会」の事務局長を務めた田村敏雄。元大蔵官僚だった3人には、もう一つ共通点があった。

▼池田は宇都宮税務署長だった昭和のはじめ、全身にかさぶたができる「天疱瘡(てんぽうそう)」にかかった。世界でも珍しい病気で5年間の寝たきり生活を送る。看病した妻に先立たれる悲劇にも見舞われた。下村にとって人生最大の敵は結核だった。何度も再発して闘病生活を余儀なくされる。田村はシベリア抑留という過酷な体験を強いられた。

▼いずれも、官僚として出世の道を断たれた「ルーザー(敗者)」である。にもかかわらず、「誰よりも『楽観的』に…日本国民は豊かになるのだ、と声を上げるために巡り会うことになる」

▼本日召集の臨時国会で、自民党の岸田文雄総裁が首相に就任する。池田が創設した宏池会を率いる岸田氏は、目玉政策として令和版の所得倍増を掲げている。「東大受験に3回失敗」という、先の3人に比べてスケールは小さいものの、ルーザーの経験もある。

▼『危機の宰相』のなかで、池田側近の一人だった宮沢喜一元首相が、池田の人柄についてこう語っている。「あの人は、どういうわけか、自分を秀才じゃないと思い込んでしまった人なんですね。それが人の話をよく聞くという非常にすぐれた能力を作り出した」

▼岸田氏が「聞く力」を強調するのは、郷里の大先輩でもある池田を見習っているのかもしれない。