7月6日

戦時中、劇団が存続するためには、国の統制下にある連盟に所属して戦意高揚のための芝居を上演するしかなかった。日大芸術学部に在学中だった佐野浅夫さんは同級生に誘われて、そんな劇団の一つ「苦楽座」に入団する。新劇の団十郎と呼ばれる人気俳優だった丸山定夫らにより、結成されたばかりだった。

▼昭和20年に「桜隊」と改称させられた劇団は、広島を拠点に巡演することになる。佐野さんは参加できなかった。召集されて本土決戦に備える特攻隊に配属されたからだ。原爆により団員9人が亡くなったのを知ったのは、戦争が終わった後である。

▼先に死ぬはずの自分だけが、なぜ生き残ったのか。戦後、俳優として活躍するなか、佐野さんは胸の内を明らかにすることはなかった。62年たった平成19年、防衛相による「原爆投下はしょうがない」発言にショックを受けて、公の場で発言するようになる。

▼佐野さんといえば、テレビの人気時代劇「水戸黄門」、初代、2代目とはひと味違う、庶民的な天下の副将軍が当たり役である。ただ、ライフワークといえるのは半世紀以上に及んだNHKラジオの幼児向け童話の朗読番組「お話でてこい」だった。出演依頼を受けたのは昭和29年、第五福竜丸が水爆実験で被(ひ)曝(ばく)したニュースで世の中は騒然としていた。平和と子供たちの幸福を願う気持ちで始めたという。

▼そば屋の職人の役が決まれば、50店以上訪ね歩いて研究する。撮影の合間を縫って老人施設への慰問を重ねた。幼稚園や保育園に足を運んでは、子供たちに直接、童話を語り聞かせた。

▼佐野さんが96歳の大往生を遂げた。真面目一筋の俳優人生は、志半ばで逝った仲間たちの分まで、との思いとともにあったはずだ。