9月18日 コラム 産経抄

建設現場で同じ作業に汗を流す職人たちに、「何をしているのですか」と通りすがりの旅人が尋ねた。 ▼「レンガ積みだ。手が痛くて仕方ない」と1人がぼやき、もう1人は「壁を造っているんだ」と目尻を下げた。3人目は胸を反らせていわく「大聖堂を建てている。神を讃(たた)えるためだ」―。仕事とは、不可思議にしてデリケートな生き物らしい。「目的」という妙薬のさじ加減一つで、うつむく人がいる。上を向く人もいる。

▼中でも教職は、人目に立たぬ「レンガ積み」の日々に唇をかむような仕事だろう。相手は子供という柔らかな存在である。彼らのために確かな足場を築き、自分の足で歩けるように教え導く。朝に種を植えて、夕に芽の出るものではない。高い志と長い目をもって上を向いてこそ、成り立つ仕事に違いない。でなければ、教わる子供たちが迷惑する。

▼あろうことか私怨(しえん)のレンガを胸の内に積み上げ、魔窟を築き上げた教職者がいる。埼玉県富士見市内の小学校で、給食のカレーに漂白剤を混ぜた女性教諭(24)が逮捕された。昨年度まで担当したクラスを、希望通りに受け持てなかったのが動機だという。子供たちは事なきを得たものの、身勝手な恨みの矛先を向けられた胸中を思うと、言葉を失う。

▼英語学者の渡部昇一さんは「人生を作り上げる素材となるものは時間である」と言っていた。以前の担任学級へのゆがんだ愛着を見るかぎり、件(くだん)の女性教諭は上でも下でもなく後ろを向いていたのだろう。つつがなく教壇に立ち続けていたならば、積み上げたレンガがまぶしい聖堂に姿を変える未来も、その目で見られただろうに。

▼春が来る度、児童との胸躍る出会いもあったろう。せめて、手放した明日の重さを悔いてほしい。