今月24日に90歳で亡くなった作家の森村誠一さんの著作は400冊を超える。1冊目は昭和40年に出した『サラリーマン悪徳セミナー』と題するビジネス書だった。

▼新聞広告には国民作家、松本清張の推薦文が載っていた。当時勤務していたホテルの常連客が清張と親しかった。その縁で5分間だけ自宅での面会が許されたが、大作家は見知らぬ青年に目もくれない。焦った森村さんは、「あなたの作品のホテルに関する記述には間違いがある」と切り出した。

▼「どこだ」。じろりとにらんだ清張は、2時間にわたりホテルの仕組みについて根掘り葉掘り聞いた。作家の綿密な取材に舌を巻いた。梶山季之、笹沢左保、黒岩重吾ら売れっ子作家も森村さんのホテルを定宿にしていた。子供のころから読書好きだった森村さんは、大いに刺激を受けた。

▼やがてホテル内の密室殺人を描いた『高層の死角』で江戸川乱歩賞を受賞する。選考委員長だった清張にあいさつに行くと、森村さんのことはすっかり忘れていた。自分の作品のことしか頭にない。「作家たるべきもの、かくあるべし」と胸に刻んだ。

▼作家生活に入るまで、ホテル勤めは10年に及んだ。老若男女、多種多様な人が集まるホテルは森村さんにとって、人間観察という作家修業の場でもあった。ホテルにとって最大の売り物は「ホスピタリティー(もてなし)」だという。森村さん自身もてなし上手な人だった。

▼東京都内の自宅をインタビューで伺ったことがある。おいしいコーヒーを頂いただけではない。「あなたなら、これかな」と本棚から新聞記者が主人公のミステリー作品を取り出した。訪問客の境遇に合わせて自作をプレゼントしてくれる作家が他にいるだろうか。