「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」。日本のポツダム宣言受諾後の昭和20年8月18日、ソ連軍が千島列島最北の占守(シュムシュ)島への上陸を開始すると、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将はただちに命じた。占守島での激戦が、ソ連に北海道占領を断念させた一因だとされる。

▼当時の北方派遣軍(占守島、幌筵(パラムシル)島)は約4万6千人で、装備はこの時期の日本軍としてはずばぬけた規模だった。日本の戦意と兵力を甘く見積もっていたソ連軍は、占守島で日本軍の5倍にあたる約3千人もの戦死傷者を出すことになった。

▼結局、ソ連軍の上陸は択捉島が8月28日、国後島と色丹島は9月1日と月をまたいだ。歯舞群島の占領は、日本が米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した9月2日以降だった。北海道の領有を狙っていたソ連にはこれ以上、火事場泥棒を働く余裕も猶予もなかった。

▼18日の小紙は、占守島で命を落とした将兵の慰霊碑が5月に、愛知県豊橋市から陸上自衛隊の東千歳駐屯地(北海道千歳市)に移設され、見学申込者に一般公開されていると報じていた。表面には「将兵眠る」、裏面には「祖国の弥栄(いやさか)を祈る」と刻まれている。

▼昨年10月には樋口中将の功績を伝える銅像が、出身地の兵庫県淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神宮に建立された。除幕式のあいさつで、樋口中将の孫の隆一さんは述べた。「終戦時に樋口がソ連の北海道侵略を止めていなければ、日本は今のウクライナと同じ運命をたどったに違いない」。

▼戦う覚悟と装備を持ち、さらにそれを相手に伝えなければ侵略を招く。軍事力という背景を持たない外交は脆弱(ぜいじゃく)である。ソ連に日ソ中立条約を一方的に破棄され国土を奪われた日本は、本来それを知っているはずである。