9月2日

 「人の死」には2つあるという。1つは心臓が止まった日。もう1つは人々の記憶から、その人が忘れ去られる日だと。思い出す歌がある。<わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ>永田和宏。

▼小紙に過日寄せられた手紙にも、先の歌をなぞるかのような痛切な思いがつづられていた。「私の母の妹、つまり叔母が満州・牡丹江(ぼたんこう)へ昭和20年に嫁いだきり、消息が判(わか)らない状態がいまだに続いているのです」と。送ってくださったのは、さいたま市浦和区の女性(90)である。

▼大東亜戦争の末期、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国などに侵攻した。牡丹江でも、日本人に暴虐の限りを尽くしている。叔母には侵攻後、日本の家族から朝鮮に住む親類を頼るように連絡を試みたが、間に合わなかったそうである。

▼ソ連軍の手にかかる前に、自ら死を選んだ女性や子供もいる―。牡丹江から日本に引き揚げてきた人に、そんな話も聞かされたと手紙には書かれていた。叔母の生死をそれ以上、確かめるすべもない。女性の祖母(叔母の母)は泣く泣く娘の着物を埋葬し、供養したのだという。

▼戦後81年、戦場となった地にはいまも約112万柱に上る戦没者の遺骨が取り残されたままだ。中国各地にも多くの遺骨が眠っているものの、中国政府は「国民感情」などを理由に、日本の調査すら認めようとしない。そして遺族の高齢化は進む。

▼女性は「叔母を知る最後の人間」として、筆を執らずにはいられなかったという。同じような境涯にある遺族もいることを忘れないでほしいと、手紙はそう結ばれていた。叔母の生きた証しと、その記憶をとどめた女性の切なる願いを、ここに記しておく。