倭国の始まりはイトシマのクシフル岳から 東へ山を抜けて ヨシタケタカギ(ここのニニギの墓あり)
更に東へいき春日市スクオカモト(ここがヒミカの墓殉死者100人と眠る)更に東南へ移動して太宰府
ここがトトクフ都府楼倭国の首都で周囲に城を築く 倭の五王からタリシホコ岩井サチヤマ白村の戦いまで
続く
倭国では大陸との交流は古くからあった
交流では文字を必要とする
読めもできない金印を貰い有難がるわけはない
読めるからこそ有難がる
漢字ができたのは何時?当然交流があったからこそ漢字流入は早かった
縄文文明時代いあた石器時代よりの言語に表音の近い漢字を当てはめることは簡単だった
白村江の戦いが倭国の君のもと行われたが 奈良は唐と密約を結び不戦だった
過去の継体の裏切りに続く更なる裏切りと言える
裏切りの王朝 奈良

奈良の支持者は古代より日本列島の支配をしていたとの大いなる錯誤の穴埋めに東遷を言う
事実は倭国で食い詰めた神武兄弟の冒険譚だ 其れより以前にも多くの冒険者がいただろう
ニギハヤもその内の一人だ
現状に満足するものが命をかけた冒険をするはずが無いのは知れたこと

山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜■(りっしんべん+可)國曽 蜻嶋 八間跡能國者
山根には群山あれど とりよろう天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は煙たちたつ 海原はかもめたちたつうまし国ぞ浜との国は

此の歌でで明確に解るのは奈良にかもめのいないことだが なんでもならの狂信者は 大阪湾から飛んでくるという
事実はカグヤマは別府鶴見岳 かもめと湯煙を詠んだ倭国の歌 
世間無常の倭歌(詠み筑紫歌 チクシウタ
天地の 遠き始めよ 世の中は 常無きものと 語り継ぎ
ながらへ来たれ 天の原 ふり放け見れば 照る月も
満ち興きしけり あしひきの 山の木末も 春されば
花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交へ 黄葉散りけり
うつせみも かくのみならし 紅の 色も移ろひ ぬばたまの
黒髪変り 朝の咲み 暮変らひ 吹く風の 見えぬが如く
逝く水の 留らぬ如く 常も無く 移ろふ見れば にはたづみ
流るる涙 止みかねつも

奈良は1年前後糸島の神武が侵入し東鯷人を殺戮し盆地の一隅に拠点をつくる
其の後欠史8代迄の間盆地を制圧する
この間約220年程 スジンにより神武の末裔は駆逐される
それまでの王の名は大倭(オオチクシ)若倭(ワカチクシ)などの倭国の後ろ盾を現すものだったが
スジン以降絶える スジンは周辺を制圧し版図を広げる 其の後福井の半島人継体がオウジン5世
の孫と自称し政権簒奪に成功する
味を占めた継体は半島での戦いの応援と称し九州へ無傷で乗り込む事に成功し
倭国の君イワイを殺すことに成功するが 肥の国の軍勢に攻められ倭国簒奪に失敗する
時は移りタリシホコの時代になり隋を侮り天子を自称しシンの後継者足らんとし大陸との関係を
壊した倭国に見切りをつけた奈良政権は密かに唐に通じ裏切る
白村江の戦いに惨敗した倭国は弱り700年に滅ぶ
以降奈良政権が列島の代表政権となる

明治になり薩摩長州が政権を掌握した 徳川に代わる権力の象徴として
それまで庶民に無縁の天皇を担ぐ 官僚に都合のよい神輿であり


日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り

2000里は140Km 一里75m  日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました