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熱力学的コンピューティング(Thermodynamic Computing)」の新しい設計と訓練フレームワークを提唱したのである。本稿では、この研究がどのようにしてこれまでの物理的な限界を打ち破り、次世代の超低消費電力AIの扉を開こうとしているのか、その深遠なメカニズムと科学的意義を見てみたい。
コンピューティングの宿敵「熱ゆらぎ」を味方につける逆転の発想
私たちが日常的に使用しているスマートフォンから、世界最高峰のスーパーコンピュータ、さらには次世代の計算機と期待される量子コンピュータに至るまで、すべての計算機アーキテクチャは共通の「敵」と戦っている。それは、環境の温度に起因する電荷キャリア(主に電子)のランダムな振動、すなわち熱雑音だ。古典的なコンピュータは、このノイズに計算のシグナルが掻き消されないよう、熱エネルギーの何千倍ものエネルギーを印加して確実な「0」と「1」のスイッチングを行っている。量子コンピュータにおいても事情は似ており、熱による状態の破壊(デコヒーレンス)を防ぐために、絶対零度近くまでシステム全体を冷却する大規模な設備が不可欠となっている。
熱力学的コンピューティングは、この常識を根底から覆すアプローチをとる。システムを熱から守るのではなく、デバイス自体が持つエネルギーのスケールを環境の熱エネルギーと同程度まで意図的に引き下げるのだ。このような状態に置かれた物理デバイスは、外部から電力を供給されずとも、周囲の熱のゆらぎに駆動されて自発的に状態を変化させていく。このランダムに見える時間発展(系の状態変化)を巧みにプログラミングし、有用な計算結果として抽出するのが熱力学的コンピューティングの基本原理だ。まさに、荒れ狂う波を巨大な防波堤で力ずくで押さえ込むのではなく、その波の力そのものを利用して進む帆船のような、極めてエレガントなエネルギー利用の形態と言える。
「平衡状態の呪縛」と「線形計算の限界」という2つの壁
しかし、熱力学的コンピューティングを実用的なAIハードウェアとして応用するためには、これまで2つの致命的な課題が存在していた。その1つが「平衡状態の呪縛」である。既存の熱力学的コンピュータの多くは、ボルツマン分布という統計力学の法則に依存していた。これは、システムが長時間放置されて最終的に落ち着く「熱的平衡状態」における確率分布を利用して情報をエンコードする手法である。この方式は理論的に美しいものの、現実の物理システムが平衡状態に達するまでの時間は予測が困難であり、場合によっては実用に耐えないほど長大な時間を要する。計算プログラムを変更するたびに、系が落ち着くのを待たなければならないことは、計算速度の観点から大きな障害となっていた。
もう1つの課題は、計算能力の表現力不足である。従来の熱力学的コンピュータ(研究チームはこれをボルツマン・コンピュータと呼んでいる)が処理できるのは、基本的に線形代数の問題、例えば特定の条件を満たす行列の逆行列計算などに限定されていた。しかし、現代の機械学習、とりわけディープラーニングが画像認識や自然言語処理において驚異的な性能を発揮している理由は、ニューラルネットワークが持つ「非線形性」にある。単純な足し算や掛け算(線形計算)をいくら繰り返しても、現実世界の複雑なパターンを学習することはできない。熱力学的コンピューティングが真に有用なAIハードウェアとなるためには、熱ゆらぎを用いて「非線形計算」を実現するという極めて困難なハードルを越える必要があったのである。