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と、細君が迎えに出た。残暑の日はまだ暑く、洋服の下襦袢がびっしょり汗にぬれている。それを糊のついた
白地の単衣に着替えて、茶の間の火鉢の前に坐ると、細君はふと思い附いたように、箪笥の上の一封の手紙を
取出し、「芳子さんから」 と言って渡した。 急いで封を切った。巻紙の厚いのを見ても、その事件に関し
ての用事に相違ない。時雄は熱心に読下した。 言文一致で、すらすらとこの上ない達筆。先生――実は御相
談に上りたいと存じましたが、余り急でしたものでしたから、独断で実行致しました。昨日四時に田中から電
報が参りまして、六時に新橋の停車場に着くとのことですもの、私はどんなに驚きましたか知れません。何事
も無いのに出て来るような、そんな軽率な男でないと信じておりますだけに、一層甚しく気を揉みました。先
生、許して下さい。私はその時刻に迎えに参りましたのです。逢って聞きますと、私の一伍一什を書いた手紙
を見て、非常に心配して、もしこの事があった為め万一郷里に伴れて帰られるようなことがあっては、自分が
済まぬと言うので、学事をも捨てて出京して、先生にすっかりお打明申して、お詫も申上げ、お情にも縋って
、万事円満に参るようにと、そういう目的で急に出て参ったとのことで御座います。それから、私は先生にお
話し申した一伍一什、先生のお情深い言葉、将来までも私等二人の神聖な真面目な恋の証人とも保護者ともな
って下さるということを話しましたところ、非常に先生の御情に感激しまして、感謝の涙に暮れました次第で
御座います。田中は私の余りに狼狽した手紙に非常に驚いたとみえまして、十分覚悟をして、万一破壊の暁に
はと言った風なことも決心して参りましたので御座います。万一の時にはあの時嵯峨に一緒に参った友人を証
人にして、二人の間が決して汚れた関係の無いことを弁明し、別れて後互に感じた二人の恋愛をも打明けて、
先生にお縋り申して郷里の父母の方へも逐一言って頂こうと決心して参りましたそうです。けれどこの間の私
の無謀で郷里の父母の感情を破っている矢先、どうしてそんなことを申して遣わされましょう。今は少時沈黙
して、お互に希望を持って、専心勉学に志し、いつか折を見て――或は五年、十年の後かも知れません――打
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通る。 下駄の音がする度に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小き
ざみな、軽い後歯の音が静かな夜を遠く響いて来た。「今度のこそ、芳子さんですよ」 と姉は言った。 果
してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子が開く。「芳子さん?」「ええ」 と艶やかな声がす
る。 玄関から丈の高い庇髪の美しい姿がすっと入って来たが、「あら、まア、先生!」 と声を立てた。そ
の声には驚愕と当惑の調子が十分に籠っていた。「大変遅くなって……」と言って、座敷と居間との間の閾の
処に来て、半ば坐って、ちらりと電光のように時雄の顔色を窺ったが、すぐ紫の袱紗に何か包んだものを出し
て、黙って姉の方に押遣った。「何ですか……お土産? いつもお気の毒ね?」「いいえ、私も召上るんです
もの」 と芳子は快活に言った。そして次の間へ行こうとしたのを、無理に洋燈の明るい眩しい居間の一隅に
坐らせた。美しい姿、当世流の庇髪、派手なネルにオリイヴ色の夏帯を形よく緊めて、少し斜に坐った艶やか
さ。時雄はその姿と相対して、一種状すべからざる満足を胸に感じ、今までの煩悶と苦痛とを半ば忘れて了っ
た。有力な敵があっても、その恋人をだに占領すれば、それで心の安まるのは恋する者の常態である。「大変
に遅くなって了って……」 いかにも遣瀬ないというように微かに弁解した。「中野へ散歩に行ったッて?」
 時雄は突如として問うた。「ええ……」芳子は時雄の顔色をまたちらりと見た。 姉は茶を淹れる。土産の
包を開くと、姉の好きな好きなシュウクリーム。これはマアお旨しいと姉の声。で、暫く一座はそれに気を取
られた。 少時してから、芳子が、「先生、私の帰るのを待っていて下さったの?」「ええ、ええ、一時間半
位待ったのよ」 と姉が傍から言った。 で、その話が出て、都合さえよくば今夜からでも――荷物は後から
でも好いから――一緒に伴れて行く積りで来たということを話した。芳子は下を向いて、点頭いて聞いていた
。無論、その胸には一種の圧迫を感じたに相違ないけれど、芳子の心にしては、絶対に信頼して――今回の恋
のことにも全心を挙げて同情してくれた師の家に行って住むことは別に甚しい苦痛でも無かった。寧ろ以前か
らこの昔風の家に同居しているのを不快に思って、出来るならば、初めのように先生の家にと願っていたので