【天川龍一】龍粋社【坂本観音】part8
1名無しさん@実況は禁止ですよ (ブーイモ MM43-TY43)
2026/09/19(土) 00:12:33.08ID:EhKAczBHM 龍粋社について語りましょう
301名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/03(火) 04:13:57.62ID:r4qqHqdk0 1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行し、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者、岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。1926年(大正15年 / 昭和元年)、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、東京世田谷区に転居。『大阪朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929年(昭和4年)、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。川田順、斎藤茂吉、前田夕暮、松村英一とともに日本歌人協会(東京市本郷区駒込)の常務となった[7]。
1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途に奈良へ立寄り、頻りに家族旅行に出かける。1932年(昭和7年)、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933年(昭和8年)、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。また同年の皇太子明仁親王誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲: 中山晋平)を寄せる。1934年(昭和9年)、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。台湾総督府の招聘により台湾に遊ぶ。1935年(昭和10年)、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。『毎日新聞』の委託により日本統治時代の朝鮮に旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。
1937年(昭和12年)、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。1938年(昭和13年)にはヒトラーユーゲントの来日に際して『万歳ヒットラー・ユーゲント』を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。1940年(昭和15年)、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲: 信時潔)の作詩にあたる。1941年(昭和16年)春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父の墓参をし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、帝国芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
1942年(昭和17年)、川田順と日本文学報国会が情報局と大政翼賛会の後援、毎日新聞社の協力により『愛国百人一首』を編纂した際、北原も選者に選ばれたが[8]、北原は小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去[9]。葬儀は青山斎場で行われた [10]。 葬儀委員長は白秋のいえの夫であり、生前パンの会などで交友のあった画家の山本鼎が務めた [11]。57歳没。
1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途に奈良へ立寄り、頻りに家族旅行に出かける。1932年(昭和7年)、吉田一穂、大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933年(昭和8年)、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。また同年の皇太子明仁親王誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲: 中山晋平)を寄せる。1934年(昭和9年)、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。台湾総督府の招聘により台湾に遊ぶ。1935年(昭和10年)、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。『毎日新聞』の委託により日本統治時代の朝鮮に旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。
1937年(昭和12年)、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。1938年(昭和13年)にはヒトラーユーゲントの来日に際して『万歳ヒットラー・ユーゲント』を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。1940年(昭和15年)、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲: 信時潔)の作詩にあたる。1941年(昭和16年)春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父の墓参をし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、帝国芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
1942年(昭和17年)、川田順と日本文学報国会が情報局と大政翼賛会の後援、毎日新聞社の協力により『愛国百人一首』を編纂した際、北原も選者に選ばれたが[8]、北原は小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去[9]。葬儀は青山斎場で行われた [10]。 葬儀委員長は白秋のいえの夫であり、生前パンの会などで交友のあった画家の山本鼎が務めた [11]。57歳没。
302名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/03(火) 04:17:12.22ID:r4qqHqdk0 北原白秋は何をした人ですか?
北原白秋(きたはら はくしゅう)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の詩人、歌人、童謡作家です。
主な活動と実績
* 詩の発表: 処女詩集『邪宗門』(1909年)や抒情小曲集『思ひ出』(1911年)を発表し、近代日本詩壇の第一人者となりました。
*
* 童謡の創作: 児童文誌『赤い鳥』に参加し、「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」「雨ふり」など、現在も歌い継がれる多くの名作童謡を生み出しました。
*
* 短歌・歌集: 第一歌集『桐の花』(1913年)をはじめとする歌集を発表し、のちに短歌雑誌『多磨』を創刊しました。
*
* 校歌の作詞: 全国100校を超える小・中・高校や大学の校歌を作詞しました。
*
北原白秋(きたはら はくしゅう)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の詩人、歌人、童謡作家です。
主な活動と実績
* 詩の発表: 処女詩集『邪宗門』(1909年)や抒情小曲集『思ひ出』(1911年)を発表し、近代日本詩壇の第一人者となりました。
*
* 童謡の創作: 児童文誌『赤い鳥』に参加し、「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」「雨ふり」など、現在も歌い継がれる多くの名作童謡を生み出しました。
*
* 短歌・歌集: 第一歌集『桐の花』(1913年)をはじめとする歌集を発表し、のちに短歌雑誌『多磨』を創刊しました。
*
* 校歌の作詞: 全国100校を超える小・中・高校や大学の校歌を作詞しました。
*
303名無しさん@実況は禁止ですよ (マクドW FF03-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:00:00.10ID:6hRrRU7dF 0期生は土日、祝日お仕事休みなので
本当厄介ですね。家族とか親戚とかいてないのでしょうか?
本当厄介ですね。家族とか親戚とかいてないのでしょうか?
304名無しさん@実況は禁止ですよ (マクドW FF03-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:01:02.18ID:6hRrRU7dF あのハゲ2人辞めないかな
子供とか奥さんとかいないのかな?
娘とか息子おらんのかな?孫とか
同じ目に合えば良いのに
終身刑なればいいのに
早々に辞める決断をしたほじょうこうだいペンネームさん正解です
オウム真理教のナンバーツーみたい。
あのハゲ2人のタチの悪さ
くさいやつゆき
家族とか周りに自分の大切な人おらんのかな
って思うぐらいのタチの悪さ
変な人間を、ネットで
集めるせいで
どこかの宗派で信仰心の多い人も多いと思う
ひどいことをしてるから、本当のことを事実を暴露されるのに、それをやらなかったら暴露されないのに、懲りずにやってくるのはどうしてですか?
自分の自分の首を絞めたいからなのか、お金が目的なのか、
あの2人はSNSに向いてないので
本当にSNSを辞めた方が良いと思います。
子供とか奥さんとかいないのかな?
娘とか息子おらんのかな?孫とか
同じ目に合えば良いのに
終身刑なればいいのに
早々に辞める決断をしたほじょうこうだいペンネームさん正解です
オウム真理教のナンバーツーみたい。
あのハゲ2人のタチの悪さ
くさいやつゆき
家族とか周りに自分の大切な人おらんのかな
って思うぐらいのタチの悪さ
変な人間を、ネットで
集めるせいで
どこかの宗派で信仰心の多い人も多いと思う
ひどいことをしてるから、本当のことを事実を暴露されるのに、それをやらなかったら暴露されないのに、懲りずにやってくるのはどうしてですか?
自分の自分の首を絞めたいからなのか、お金が目的なのか、
あの2人はSNSに向いてないので
本当にSNSを辞めた方が良いと思います。
305名無しさん@実況は禁止ですよ (マクドW FF03-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:03:49.16ID:6hRrRU7dF 0期生は土日、祝日お仕事休みなので
本当厄介ですね。家族とか親戚とかいてないのでしょうか?
本当厄介ですね。家族とか親戚とかいてないのでしょうか?
306名無しさん@実況は禁止ですよ (マクドW FF03-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:08:01.63ID:6hRrRU7dF あと本当のことを言うとそうとしてくる人
自分よりも下の立場の人を雑に扱う組織誰も何にも成長はないですよね
嘘を信じた人の末路
自分よりも下の立場の人を雑に扱う組織誰も何にも成長はないですよね
嘘を信じた人の末路
307名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe38-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:25:04.73ID:KajzjQHj0 https://x.com/qoo_175/status/2117016573135450136?a=uM6tMPZRSujhYVoHzbg&s=20
嵐のニノもいじめられてた過去があるなら頑張って始めようと思う
いのりやとうぎ
みやがわねんじ
ふくつきあきや
この辺りがマジで怪しいですけどね
ニノにも辛い過去があったんだって思いました私には辛い過去がないのでね楽しい過去しかないので
嵐のニノもいじめられてた過去があるなら頑張って始めようと思う
いのりやとうぎ
みやがわねんじ
ふくつきあきや
この辺りがマジで怪しいですけどね
ニノにも辛い過去があったんだって思いました私には辛い過去がないのでね楽しい過去しかないので
308名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe38-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:26:10.22ID:KajzjQHj0 それかもう0期生の4人でグループ作って抜けてもらったらいいんじゃないでしょうか?
何の信頼関係もないみたいですし
悪の根源に抜けてもらわないといつまで経っても終わらないです。
ただのあの女の子のボディガードマンに作られた弟子なのでこの先何の成長もないと思いますよ
何を目的に作られたのかって凄く大事です。
人助けのために作られた組織ならこうなってないですし、本心はそうでも理由はあとからいくらでも適当なこと言ってつけられます
何の信頼関係もないみたいですし
悪の根源に抜けてもらわないといつまで経っても終わらないです。
ただのあの女の子のボディガードマンに作られた弟子なのでこの先何の成長もないと思いますよ
何を目的に作られたのかって凄く大事です。
人助けのために作られた組織ならこうなってないですし、本心はそうでも理由はあとからいくらでも適当なこと言ってつけられます
309名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe38-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:28:10.25ID:KajzjQHj0 何を目的に始めたのかって実はすごい大事です。
中には亡くなってる方もいるのではないかと心配しています。
に決まってるじゃないですか
だってそう思う人は、嘘を信じて洗脳されてる人ですから
どっちの言い分も聞かないとわからないのに
片方だけを鵜呑みにして信じて洗脳されてるからそう言う思考になるのではないでしょうか?
中には亡くなってる方もいるのではないかと心配しています。
に決まってるじゃないですか
だってそう思う人は、嘘を信じて洗脳されてる人ですから
どっちの言い分も聞かないとわからないのに
片方だけを鵜呑みにして信じて洗脳されてるからそう言う思考になるのではないでしょうか?
310名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:29:27.37ID:r4qqHqdk0 武田信玄は誰に負けたの?
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
311名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/03(火) 23:31:44.40ID:r4qqHqdk0 武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
312名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:00:35.29ID:pl6hl1Pt0 武田信玄
日本の武将、戦国大名
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日[1]、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。ただし、早世した竹松という兄がいるため長男ではなく次男である。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
日本の武将、戦国大名
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日[1]、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。ただし、早世した竹松という兄がいるため長男ではなく次男である。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
313名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:01:40.55ID:pl6hl1Pt0 嫡男昇格と元服
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
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2026/11/04(水) 00:02:44.21ID:pl6hl1Pt0 信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
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2026/11/04(水) 00:03:46.95ID:pl6hl1Pt0 嫡男昇格と元服
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
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2026/11/04(水) 00:04:48.52ID:pl6hl1Pt0 天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
→詳細は「上田原の戦い」および「塩尻峠の戦い」を参照
今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。
天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[注釈 7]。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。
天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時にはすでに抵抗する力はなく、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
→詳細は「上田原の戦い」および「塩尻峠の戦い」を参照
今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。
天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[注釈 7]。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。
天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時にはすでに抵抗する力はなく、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
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2026/11/04(水) 00:05:52.28ID:pl6hl1Pt0 天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いで撃破された。長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
甲相駿三国同盟の締結
編集
→詳細は「甲相駿三国同盟」を参照
→詳細は「甲相同盟」を参照
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄および今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。
木曽・下伊那・美濃恵那の平定
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった[12]。
第2次川中島の戦い
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いで撃破された。長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
甲相駿三国同盟の締結
編集
→詳細は「甲相駿三国同盟」を参照
→詳細は「甲相同盟」を参照
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄および今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。
木曽・下伊那・美濃恵那の平定
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった[12]。
第2次川中島の戦い
318名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:07:24.46ID:pl6hl1Pt0 天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠もる。これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城。
天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した[注釈 8]。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。
第3次川中島の戦い
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[注釈 9]。また、小谷城(平倉城)を攻めて飯森盛春らを討ち取り、これを攻略する(小谷城の戦い)。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。
出家
永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』によれば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている[注釈 10]。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか[16]、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[17]。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や[16]、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[16]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある
その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。
信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。
第5次川中島の戦いと西上野侵攻
編集
→詳細は「西上野侵攻」を参照
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉氏の長野業正が善戦したため、当初は捗々しい結果は得られなかった。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した[注釈 11][19]。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。
天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した[注釈 8]。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。
第3次川中島の戦い
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[注釈 9]。また、小谷城(平倉城)を攻めて飯森盛春らを討ち取り、これを攻略する(小谷城の戦い)。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。
出家
永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』によれば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている[注釈 10]。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか[16]、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[17]。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や[16]、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[16]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある
その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。
信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。
第5次川中島の戦いと西上野侵攻
編集
→詳細は「西上野侵攻」を参照
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉氏の長野業正が善戦したため、当初は捗々しい結果は得られなかった。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した[注釈 11][19]。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。
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2026/11/04(水) 00:08:46.14ID:pl6hl1Pt0 飛騨国内紛への介入
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
越中国への介入
→詳細は「越中の戦国時代」を参照
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
外交方針の転換と甲駿同盟の破綻
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった[注釈 12]。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[21]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄8年(1565年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[注釈 13]。
永禄9年(1566年)8月、上杉謙信が信濃飯山城に入ると、牽制のため小県郡岡村に着陣。このとき、譜代重臣、甲・信・西上州の国衆とその家臣237名より起請文を提出させている(生島足島神社起請文、下之郷起請文)。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、武田と今川の同盟関係が急速に悪化する。
この年の10月、幽閉されていた武田義信が病死した。長年、義信の死因には病死説と自害説があったが、葬儀の際に読まれた香語に病死に至る経緯が書かれていることから病死が正しいと考えられている[28]。ただし、義信が自害したとする風説も早い時期からあったらしく、今川氏真は義信は信玄によって自害させられたと信じていたようである。義信の死を知った氏真は嶺松院の返還を要求し、北条氏康が仲介した形で同年11月(一説には翌年2月)に嶺松院は義信との娘を連れて駿河に帰国している。これによって甲相駿三国同盟は事実上解体に向かうことになる
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
越中国への介入
→詳細は「越中の戦国時代」を参照
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
外交方針の転換と甲駿同盟の破綻
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった[注釈 12]。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[21]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄8年(1565年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[注釈 13]。
永禄9年(1566年)8月、上杉謙信が信濃飯山城に入ると、牽制のため小県郡岡村に着陣。このとき、譜代重臣、甲・信・西上州の国衆とその家臣237名より起請文を提出させている(生島足島神社起請文、下之郷起請文)。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、武田と今川の同盟関係が急速に悪化する。
この年の10月、幽閉されていた武田義信が病死した。長年、義信の死因には病死説と自害説があったが、葬儀の際に読まれた香語に病死に至る経緯が書かれていることから病死が正しいと考えられている[28]。ただし、義信が自害したとする風説も早い時期からあったらしく、今川氏真は義信は信玄によって自害させられたと信じていたようである。義信の死を知った氏真は嶺松院の返還を要求し、北条氏康が仲介した形で同年11月(一説には翌年2月)に嶺松院は義信との娘を連れて駿河に帰国している。これによって甲相駿三国同盟は事実上解体に向かうことになる
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2026/11/04(水) 00:16:50.46ID:pl6hl1Pt0 皇居で初のカフェ併設「大手休憩所」オープン 「若い人も入りやすく」新名所でより身近に
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
「新しくできるというので、一度はいってみたいなと」
偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
――本当にたまたま
偶然並んだ人
「本当に。全然知らない。持ってるのかな俺」
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
「新しくできるというので、一度はいってみたいなと」
偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
――本当にたまたま
偶然並んだ人
「本当に。全然知らない。持ってるのかな俺」
321名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:18:00.16ID:pl6hl1Pt0 初のカフェ 限定ブレンドも
それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
ここに併設されているのが、皇居内初となるカフェ。ここでしか味わえない限定ブレンドも楽しめるそうです
40代
「猿田彦珈琲は東御苑のオリジナルブレンドがあったので、それを注文。すごく気持ちの良い場所だなと。たくさんの方がゆったり過ごされていて、また今度は友達や家族を連れてきたい」
さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
「きょうオープンだってきのう見たのよ。ワクワクしてるの。だからこれ(写真)を撮ってくの。写真だけ撮れば、後で語れるでしょ。頭はぼけるけど、これ(写真)はぼけないから」
――スマホが認識してくれる
入場者
「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
入場者
「いいです、想像以上。思ったより広々とした休憩所。美術館もあるし、ここ結構楽しいんだよ」
その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
――100点満点じゃない?
入場者
「100じゃないよ。100超えたね、想像以上。広くて空間がね」
多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
新たな楽しみ目当てに「初めて」訪れる人も
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
「初めてです。カフェあることによって、若い人も入りやすくなって、そういう(若い)人も増える」
50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
ここに併設されているのが、皇居内初となるカフェ。ここでしか味わえない限定ブレンドも楽しめるそうです
40代
「猿田彦珈琲は東御苑のオリジナルブレンドがあったので、それを注文。すごく気持ちの良い場所だなと。たくさんの方がゆったり過ごされていて、また今度は友達や家族を連れてきたい」
さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
「きょうオープンだってきのう見たのよ。ワクワクしてるの。だからこれ(写真)を撮ってくの。写真だけ撮れば、後で語れるでしょ。頭はぼけるけど、これ(写真)はぼけないから」
――スマホが認識してくれる
入場者
「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
入場者
「いいです、想像以上。思ったより広々とした休憩所。美術館もあるし、ここ結構楽しいんだよ」
その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
――100点満点じゃない?
入場者
「100じゃないよ。100超えたね、想像以上。広くて空間がね」
多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
新たな楽しみ目当てに「初めて」訪れる人も
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
「初めてです。カフェあることによって、若い人も入りやすくなって、そういう(若い)人も増える」
50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
322名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:19:12.74ID:pl6hl1Pt0 皇居で初のカフェ併設「大手休憩所」オープン 「若い人も入りやすく」新名所でより身近に
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
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40代
「猿田彦珈琲は東御苑のオリジナルブレンドがあったので、それを注文。すごく気持ちの良い場所だなと。たくさんの方がゆったり過ごされていて、また今度は友達や家族を連れてきたい」
さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
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入場者
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入場者
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去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
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多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
「新しくできるというので、一度はいってみたいなと」
偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
――本当にたまたま
偶然並んだ人
「本当に。全然知らない。持ってるのかな俺」
初のカフェ 限定ブレンドも
それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
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40代
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満足度「1000点」「想像以上」
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多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
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多数のお土産を購入した女性
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2026/11/04(水) 00:20:25.93ID:pl6hl1Pt0 新たな楽しみ目当てに「初めて」訪れる人も
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
「初めてです。カフェあることによって、若い人も入りやすくなって、そういう(若い)人も増える」
50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
「初めてです。カフェあることによって、若い人も入りやすくなって、そういう(若い)人も増える」
50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
324名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 00:37:50.24ID:pl6hl1Pt0 武田信玄は誰に負けたの?
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
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2026/11/04(水) 00:39:11.65ID:pl6hl1Pt0 武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
326名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:12:39.76ID:pl6hl1Pt0 https://www.instagram.com/reel/De6jSogPJ_p/?exln=MXljdjF1NWhtdHo4
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327名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:26:50.03ID:pl6hl1Pt0 武田信玄
日本の武将、戦国大名
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日[1]、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。ただし、早世した竹松という兄がいるため長男ではなく次男である。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
日本の武将、戦国大名
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日[1]、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。ただし、早世した竹松という兄がいるため長男ではなく次男である。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎[注釈 2]。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている[注釈 3]。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど[5]、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
328名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:29:21.24ID:pl6hl1Pt0 嫡男昇格と元服
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
大永3年(1523年)、4歳上の兄の竹松が7歳で夭折したため、嫡男となる[6]。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に親からすれば四男にあたる弟・次郎(武田信繁)が生まれる[7]。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったという。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉氏当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信と仲が良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している[4]。
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める[8]。官位は従五位下・左京大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
329名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:41:49.82ID:pl6hl1Pt0 信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与ある藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
→詳細は「上田原の戦い」および「塩尻峠の戦い」を参照
今川・北条と
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時にはすでに抵抗する力はなく、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いで撃破された。長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
甲相駿三国同盟の締結
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[注釈 6]。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
初陣と父親の追放による家督相続
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[注釈 4]。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った[注釈 5]。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与ある藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
→詳細は「上田原の戦い」および「塩尻峠の戦い」を参照
今川・北条と
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時にはすでに抵抗する力はなく、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡で村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いで撃破された。長尾景虎は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
甲相駿三国同盟の締結
330名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:44:46.08ID:pl6hl1Pt0 飛騨国内紛への介入
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
越中国への介入
編集
→詳細は「越中の戦国時代」を参照
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
外交方針の転換と甲駿同盟の破綻
編集
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった[注釈 12]。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[21]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄8年(1565年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[注釈 13]。
永禄9年(1566年)8月、上杉謙信が信濃飯山城に入ると、牽制のため小県郡岡村に着陣。このとき、譜代重臣、甲・信・西上州の国衆とその家臣237名より起請文を提出させている(生島足島神社起請文、下之郷起請文)。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、武田と今川の同盟関係が急速に悪化する。
この年の10月、幽閉されていた武田義信が病死した。長年、義信の死因には病死説と自害説があったが、葬儀の際に読まれた香語に病死に至る経緯が書かれていることから病死が正しいと考えられている[28]。ただし、義信が自害したとする風説も早い時期からあったらしく、今川氏真は義信は信玄によって自害させられたと信じていたようである。義信の死を知った氏真は嶺松院の返還を要求し、北条氏康が仲介した形で同年11月(一説には翌年2月)に嶺松院は義信との娘を連れて駿河に帰国している。これによって甲相駿三国同盟は事実上解体に向かうことになる
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
越中国への介入
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→詳細は「越中の戦国時代」を参照
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
外交方針の転換と甲駿同盟の破綻
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永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった[注釈 12]。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[21]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄8年(1565年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[注釈 13]。
永禄9年(1566年)8月、上杉謙信が信濃飯山城に入ると、牽制のため小県郡岡村に着陣。このとき、譜代重臣、甲・信・西上州の国衆とその家臣237名より起請文を提出させている(生島足島神社起請文、下之郷起請文)。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、武田と今川の同盟関係が急速に悪化する。
この年の10月、幽閉されていた武田義信が病死した。長年、義信の死因には病死説と自害説があったが、葬儀の際に読まれた香語に病死に至る経緯が書かれていることから病死が正しいと考えられている[28]。ただし、義信が自害したとする風説も早い時期からあったらしく、今川氏真は義信は信玄によって自害させられたと信じていたようである。義信の死を知った氏真は嶺松院の返還を要求し、北条氏康が仲介した形で同年11月(一説には翌年2月)に嶺松院は義信との娘を連れて駿河に帰国している。これによって甲相駿三国同盟は事実上解体に向かうことになる
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2026/11/04(水) 01:47:50.61ID:pl6hl1Pt0 皇居で初のカフェ併設「大手休憩所」オープン 「若い人も入りやすく」新名所でより身近に
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
「新しくできるというので、一度はいってみたいなと」
偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
――本当にたまたま
偶然並んだ人
「本当に。全然知らない。持ってるのかな俺」
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
「新しくできるというので、一度はいってみたいなと」
偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
――本当にたまたま
偶然並んだ人
「本当に。全然知らない。持ってるのかな俺」
332名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:48:57.13ID:pl6hl1Pt0 初のカフェ 限定ブレンドも
それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
ここに併設されているのが、皇居内初となるカフェ。ここでしか味わえない限定ブレンドも楽しめるそうです
40代
「猿田彦珈琲は東御苑のオリジナルブレンドがあったので、それを注文。すごく気持ちの良い場所だなと。たくさんの方がゆったり過ごされていて、また今度は友達や家族を連れてきたい」
さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
「きょうオープンだってきのう見たのよ。ワクワクしてるの。だからこれ(写真)を撮ってくの。写真だけ撮れば、後で語れるでしょ。頭はぼけるけど、これ(写真)はぼけないから」
――スマホが認識してくれる
入場者
「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
入場者
「いいです、想像以上。思ったより広々とした休憩所。美術館もあるし、ここ結構楽しいんだよ」
その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
――100点満点じゃない?
入場者
「100じゃないよ。100超えたね、想像以上。広くて空間がね」
多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
新たな楽しみ目当てに「初めて」訪れる人も
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
「初めてです。カフェあることによって、若い人も入りやすくなって、そういう(若い)人も増える」
50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
ここに併設されているのが、皇居内初となるカフェ。ここでしか味わえない限定ブレンドも楽しめるそうです
40代
「猿田彦珈琲は東御苑のオリジナルブレンドがあったので、それを注文。すごく気持ちの良い場所だなと。たくさんの方がゆったり過ごされていて、また今度は友達や家族を連れてきたい」
さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
「きょうオープンだってきのう見たのよ。ワクワクしてるの。だからこれ(写真)を撮ってくの。写真だけ撮れば、後で語れるでしょ。頭はぼけるけど、これ(写真)はぼけないから」
――スマホが認識してくれる
入場者
「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
入場者
「いいです、想像以上。思ったより広々とした休憩所。美術館もあるし、ここ結構楽しいんだよ」
その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
――100点満点じゃない?
入場者
「100じゃないよ。100超えたね、想像以上。広くて空間がね」
多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
新たな楽しみ目当てに「初めて」訪れる人も
初のカフェや限定グッズ。こうした新たな楽しみを目当てに、初めて皇居を訪れる人もいます。
大学生(10代)
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50代
「それ(カフェ)がなかったら、来なかった。どんなもんかな、みたいな」
新たな名所の誕生で、より身近になった皇居。お出かけ先の選択肢も広がりそうです。
333名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 01:50:04.74ID:pl6hl1Pt0 皇居で初のカフェ併設「大手休憩所」オープン 「若い人も入りやすく」新名所でより身近に
観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
【画像】皇居・東御苑「大手休憩所」「皇居三の丸尚蔵館」きょうオープン
青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
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80代
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偶然並んだ人
「ラッキーでしたね」
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それが、大手門のすぐ隣にある、その名も「大手休憩所」です。ガラス張りのモダンな外観。中には木材をふんだんに使った開放的な空間が広がっていて、日本各地の絶景や皇室の活動などの映像を楽しみながら休憩することができるのです。
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40代
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さらに、およそ2万点の美術品などを収蔵する「皇居三の丸尚蔵館」も拡大工事を終え、3日にオープンしました。
満足度「1000点」「想像以上」
新たな名所が誕生した皇居。行列に並んでいた女性は完成を心待ちにしていたようで…
入場者
「きょうオープンだってきのう見たのよ。ワクワクしてるの。だからこれ(写真)を撮ってくの。写真だけ撮れば、後で語れるでしょ。頭はぼけるけど、これ(写真)はぼけないから」
――スマホが認識してくれる
入場者
「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
入場者
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その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
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入場者
「100じゃないよ。100超えたね、想像以上。広くて空間がね」
多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
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観光客が少し一息つくこともできる、皇居では初のカフェもある「大手休憩所」が3日、オープンしました。ここでしか手に入らない皇室モチーフの限定グッズを求める人の姿もありました。
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青空が広がった祝日の朝、皇居周辺ではランナーが汗を流すいつもの光景と思いきや、走るのも一苦労の大混雑。開門前からおよそ350人の行列がありました。
多くの人が楽しみにしていたのは、3日、皇居の東御苑に誕生した新名所です。
80代
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初のカフェ 限定ブレンドも
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40代
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満足度「1000点」「想像以上」
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入場者
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「そう」
中を楽しんだ後にも、話を聞きました。
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その満足度を点数で聞くと…
入場者
「1000点でいいよね」
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入場者
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多くの人が集まる理由は、他にもあります。それが、皇室モチーフのグッズです。
去年、菊のご紋が入った財布の人気が高まり、その後、抽選販売になるほどに。そして、今回オープンした大手休憩所にも、グッズを扱う売店が併設されています。
皇室マークの入った「もなか」など、およそ1万3000円分を購入した女性は…
多数のお土産を購入した女性
「お友達がたくさんいるから。やっぱりなんとなく違う、よそで買うのと。なんとなく…皇居ですから」
334名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW feac-hQ4V)
2026/11/04(水) 06:09:06.97ID:jM+5+GCa0 無視とかどうでもいいんですよね
多分一番自分がされたくない嫌なことを他人にやってるだけ生きてきて無視なんてされた事ないしいかに人として酷い人間かがわかる
誰も興味ない早くYouTubeから撤退してほしい
あの切り抜き?省エネみたいな
皆さん〜しなければならないとか
そう思わされてることに気付きましょう
今でも皆が寝てる時間に何がやってますよ
ただの時代の古い暗殺人間ですね
多分一番自分がされたくない嫌なことを他人にやってるだけ生きてきて無視なんてされた事ないしいかに人として酷い人間かがわかる
誰も興味ない早くYouTubeから撤退してほしい
あの切り抜き?省エネみたいな
皆さん〜しなければならないとか
そう思わされてることに気付きましょう
今でも皆が寝てる時間に何がやってますよ
ただの時代の古い暗殺人間ですね
335名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW feac-hQ4V)
2026/11/04(水) 06:10:08.86ID:jM+5+GCa0 皆さん天川龍一ってペンネームですよ
それさえも騙されてる方が多いような印象を受けます。騙されないでください
人間性が本当酷いので
関わらないのが吉です
金輪際私に関わらないで下さい
それさえも騙されてる方が多いような印象を受けます。騙されないでください
人間性が本当酷いので
関わらないのが吉です
金輪際私に関わらないで下さい
336名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW feac-hQ4V)
2026/11/04(水) 06:11:17.58ID:jM+5+GCa0 こっちの出方を見て倍返しにしてくるとかもやめてもらっていいですか?自分のやってること選択、行動を見つめ直してもらっていいすか迷惑なんですよね。暇なのか知らないけど暴力ばっかり選択してね迷惑なんですよほんとに迷惑なんですよね。あとYouTube辞めてもらっていいですか?
自分で自分の評価上げる事は得意なのかもしれないですけど、ネットなんでいくらでも人騙せますし、いくらでも嘘つけますし、いくらでも善人ぶれますよね
の方であれば、さんの裏側なんてわからないですもんね。裏側がも真逆すぎて、裏側がひどすぎてありえないし話になんないです。土下座して謝ってもらいたいですね
ひどい通り越して犯罪者ですよ。ひどいこと振り口して暗殺者です。ありえないです。人として迷惑すぎる
自分が辛い思いをするのは凄く嫌で人にするのはいいみたいですね。自分ではない他人が人が辛い思いするのは良いみたいですね。
そして人に辛い思いさせて辛い人へとか言って、収益収益上げてめちゃくちゃ儲けして、ほんとに人としてありえないしヤバいです。
人にわざわざ辛い思いをさせて、それで辛い人へって言う名目作って辛い人って言うTwitterとかで辛い人へこうしたほうがいいですとか、やってそういう既成事実を作って助けてるフリをして、お金をむちゃくちゃボロ儲けしてありえないです。
それがあなたのやり方なんだなぁってあのみたいなやめてもらっていいですか自分見つめ直してもらってもいいですかね人として最低です。ありえないです。
残虐者すぎて調子乗りすぎなのちゃいますかね。
ほんとに私の中で人にわざわざ辛い思いをさせて利用して無利用するのはいいかもしれないけど、わざわざ辛い思いをさせて、それをだしに辛い人へ何々したほうがいいですって言う風に善人ぶって、 の
自分で自分の評価上げる事は得意なのかもしれないですけど、ネットなんでいくらでも人騙せますし、いくらでも嘘つけますし、いくらでも善人ぶれますよね
の方であれば、さんの裏側なんてわからないですもんね。裏側がも真逆すぎて、裏側がひどすぎてありえないし話になんないです。土下座して謝ってもらいたいですね
ひどい通り越して犯罪者ですよ。ひどいこと振り口して暗殺者です。ありえないです。人として迷惑すぎる
自分が辛い思いをするのは凄く嫌で人にするのはいいみたいですね。自分ではない他人が人が辛い思いするのは良いみたいですね。
そして人に辛い思いさせて辛い人へとか言って、収益収益上げてめちゃくちゃ儲けして、ほんとに人としてありえないしヤバいです。
人にわざわざ辛い思いをさせて、それで辛い人へって言う名目作って辛い人って言うTwitterとかで辛い人へこうしたほうがいいですとか、やってそういう既成事実を作って助けてるフリをして、お金をむちゃくちゃボロ儲けしてありえないです。
それがあなたのやり方なんだなぁってあのみたいなやめてもらっていいですか自分見つめ直してもらってもいいですかね人として最低です。ありえないです。
残虐者すぎて調子乗りすぎなのちゃいますかね。
ほんとに私の中で人にわざわざ辛い思いをさせて利用して無利用するのはいいかもしれないけど、わざわざ辛い思いをさせて、それをだしに辛い人へ何々したほうがいいですって言う風に善人ぶって、 の
337名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW feac-hQ4V)
2026/11/04(水) 06:12:26.77ID:jM+5+GCa0 お金を人々から巻き上げてありえないですね。控えめに言ってもまずは辛い思いをさせないことが大切でしょ。
金のために快楽のためにほんとにありえない。こんな人見たことないです。
二度とひどいことしないでください。まじで訴えます。
リリカさんとの対談もわざわざあなたが幽霊を事前にくっつけたんじゃないですか?それで緊急除霊とか言って緊急除霊とか言って助けてるふりをして自分の利益のため(自分の今後の収益の為)
龍粋社の存続のためにリリカさんを利用したんじゃないですか?
わざわざ事前に幽霊をくっつけて緊急除霊をするとか言って、私にはそういうふうにしか見えません。存じ上げないですけど、リリカさんが利用されてるようにしか見えません。お気の毒だと思います。
関わられてそういう商売の仕方、誰も嫌な思いしてない。誰も困っていない。誰も嫌な思いしてないならこういう事はいちいち言いません。だけどかなり酷いんでやってることが。言ってる事は皆さん信じちゃだめです。人間なんで言ってることっていくらでもそういう嘘だったりとか、いくらでもね。知能のついた人間だったら言えるんでの言ってる事は基本信じちゃだめです。行動だけ見たらその人の本性というかその人の性格がわかります。言葉に騙されないでください。あのオンライン龍粋社の紫美龍王大神様いくらほど儲けたんかなぁって思います。早々に撤退してましたけど。
昔のパワーストーンの話も嘘ですし、ただそういう話をしてる時点で、この人ら自分のこと言ってるんだなぁって思うことが得策だと思います。
多分みんな違和感を感じてると思うんで違和感の状態はそういったことですね。基本的に龍粋社って違和感しか感じないので今日もひどいことしてきてますよね。経営のことを何も知らない、人からお金を絞ることしか考えてない、人を束ねることもできない。ついて行かないほうがいいです。皆さんスクールって普通は独立するためのものです。卒業した後も仲間みたいな上部だけの仲間みたいなのを集めて、何がしたいのかさっぱりわからないです。
暗殺に加担させるための集団を作りたいのかなあとしか今なら思えないです。
みんな若い子は全員辞めてますし、それが答えです。やめたら若い子にはスクール代金を返金したんですかね人に残虐なひどいことやめてもらっていいですかね。
全国ニュースになるレベルですよ、天川さんがやってることって名前もペンネームなんで嘘の名前なんでそれも騙されてる人多いと思いますしほんとに天川さんのやってる事は全国ニュースになるレベルですよ。
自分が捕まらないように証拠は残さずしてるのかもしれないですけど、あの天川さんが暗殺しようとしてるの1人や2人じゃないですからね。ほんとに全国ニュースになるレベルです。そういうこと言ったら余計ひどいことしてきますし、もう表に出ないでほしいです。迷惑です。存在が金輪際私に関わらないで下さい。 若いスクール生にお金を返金したんですかね。
金のために快楽のためにほんとにありえない。こんな人見たことないです。
二度とひどいことしないでください。まじで訴えます。
リリカさんとの対談もわざわざあなたが幽霊を事前にくっつけたんじゃないですか?それで緊急除霊とか言って緊急除霊とか言って助けてるふりをして自分の利益のため(自分の今後の収益の為)
龍粋社の存続のためにリリカさんを利用したんじゃないですか?
わざわざ事前に幽霊をくっつけて緊急除霊をするとか言って、私にはそういうふうにしか見えません。存じ上げないですけど、リリカさんが利用されてるようにしか見えません。お気の毒だと思います。
関わられてそういう商売の仕方、誰も嫌な思いしてない。誰も困っていない。誰も嫌な思いしてないならこういう事はいちいち言いません。だけどかなり酷いんでやってることが。言ってる事は皆さん信じちゃだめです。人間なんで言ってることっていくらでもそういう嘘だったりとか、いくらでもね。知能のついた人間だったら言えるんでの言ってる事は基本信じちゃだめです。行動だけ見たらその人の本性というかその人の性格がわかります。言葉に騙されないでください。あのオンライン龍粋社の紫美龍王大神様いくらほど儲けたんかなぁって思います。早々に撤退してましたけど。
昔のパワーストーンの話も嘘ですし、ただそういう話をしてる時点で、この人ら自分のこと言ってるんだなぁって思うことが得策だと思います。
多分みんな違和感を感じてると思うんで違和感の状態はそういったことですね。基本的に龍粋社って違和感しか感じないので今日もひどいことしてきてますよね。経営のことを何も知らない、人からお金を絞ることしか考えてない、人を束ねることもできない。ついて行かないほうがいいです。皆さんスクールって普通は独立するためのものです。卒業した後も仲間みたいな上部だけの仲間みたいなのを集めて、何がしたいのかさっぱりわからないです。
暗殺に加担させるための集団を作りたいのかなあとしか今なら思えないです。
みんな若い子は全員辞めてますし、それが答えです。やめたら若い子にはスクール代金を返金したんですかね人に残虐なひどいことやめてもらっていいですかね。
全国ニュースになるレベルですよ、天川さんがやってることって名前もペンネームなんで嘘の名前なんでそれも騙されてる人多いと思いますしほんとに天川さんのやってる事は全国ニュースになるレベルですよ。
自分が捕まらないように証拠は残さずしてるのかもしれないですけど、あの天川さんが暗殺しようとしてるの1人や2人じゃないですからね。ほんとに全国ニュースになるレベルです。そういうこと言ったら余計ひどいことしてきますし、もう表に出ないでほしいです。迷惑です。存在が金輪際私に関わらないで下さい。 若いスクール生にお金を返金したんですかね。
338名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 16:59:37.43ID:pl6hl1Pt0 武田信玄は誰に負けたの?
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
武田信玄が明確に敗北を喫した主な相手は、村上義清や北条氏康などです。
主な敗戦と相手
* 村上義清(むらかみ よしきよ)
* 上田原の戦い(1548年): 信玄にとって生涯初の本格的な敗北とされ、重臣の板垣信方や甘利虎泰らが討ち死にしました。
* 砥石崩れ(1550年): 信濃の砥石城を攻めた際にも村上軍に大敗を喫しました。
*
* 北条氏康(ほうじょう うじやす)
* 駿河侵攻の際(「サル峠の戦い」や「樽峠越え」など)、相模の北条氏康に敗れています。
* 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
* 川中島の戦い(特に第4次合戦など)では、双方に大きな被害が出ており、
339名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 17:06:09.85ID:pl6hl1Pt0 武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
さらに詳しい歴史やゆかりの地については、甲府観光ナビ や 刀剣ワールド を参考にしてみてください。
340名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 17:14:22.13ID:pl6hl1Pt0 武田信玄は何をした人ですか?
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
武田信玄(たけだ しんげん / 本名:武田晴信)は、戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)を拠点とし、「戦国最強」と称えられた名将・戦国大名です。
主な功績とやったこと
* 父の追放と家督相続
* 21歳の時、暴政などで領民や家臣から不満を持たれていた父・武田信虎を駿河へ追放し、無血で武田家の当主となりました。
*
* 領土の拡大(信濃侵攻など)
* 甲斐国を統一したあと、隣接する信濃国(長野県)へ攻め込み、ほぼ平定。さらに上野(群馬県)、駿河・遠江(静岡県)などへも勢力を広げました。
* 上杉謙信との川中島の戦い
* 越後の上杉謙信と、北信濃の支配権をめぐって12年間に5回も激しい合戦(川中島の戦い)を繰り広げました。
* 優れた内政・経済政策
* 水害の多かった釜無川などに堤防を築く「信玄堤(しんげんづづみ)」の造設など、治水や新田開発を行いました。
* 国内の法律「甲州法度(こうしゅうはっと)」を定めたり、金山開発や「甲州金」の鋳造、産業(製紙や漆など)の奨励で経済を強くしました。
*
* 最期(上洛の途上)
* 晩年は天下統一を目指し、織田信長や徳川家康と対決(三方ヶ原の戦いなどで徳川軍に勝利)。しかし、京都へ向かう(上洛する)途中の信州伊那の駒場で病に倒れ、53歳で亡くなりました。
341名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/04(水) 17:18:32.00ID:pl6hl1Pt0 武田信玄の家臣の中で一番強いのは誰ですか?
武田信玄の家臣団の中で「最強」と称される武将は、個人の武勇や功績によって諸説ありますが、特に「武田四天王(武田四名臣)」や「武田二十四将」に含まれる以下の名将たちが特に最強候補として挙げられます。
最強と称される主要な家臣たち
* 馬場信春(信房)[ばば のぶはる / のぶふさ]
* 「不死身の鬼美濃」の異名を持ち、合戦で一度もかすり傷すらいっさい負わなかったと伝えられる猛将です。
* 築城や用兵にも優れ、武田四天王の一人として信玄の信頼を厚く集めました。
* 山県昌景[やまがた まさかげ]
* 真っ赤な甲冑で揃えた部隊「赤備え(あかぞなえ)」を率い、敵軍を震え上がらせた最強の突撃隊長です。
* 織田・徳川連合軍と戦った長篠の戦いでも先陣を切って猛勇を振るいました。
*
* 内藤昌豊(昌秀)[ないとう まさとよ]
* 智勇兼備の将として知られ、信玄からの信頼が非常に厚く、常に冷静な判断で武田軍を支えた名将です。
* 高坂昌信(春日虎綱)[こうさか まさのぶ / かすが とらつな]
* 「逃げ弾正」の異名を持ち、退却戦の巧みさや調略・築城(海津城代)において抜群の才を発揮した智将です。
* 武田信繁[たけだ のぶしげ]
* 信玄の弟で、武望・人望ともに厚く、信玄自身が「本当の副大将は信繁である」と深く敬愛した人物です。第四次川中島の戦いで信玄を守って討死しました。
強さの理由
武田信玄は「人は城、人は石垣、人は濠」という言葉を残した通り、個人の武勇だけに頼らず、身分に関わらず優れた才能を持つ人材を抜擢して組織的に運用しました。そのため、一人というよりも「チームとしての武田家臣団(武田軍団)」全体が戦国最強と恐れられました。
「死は3年隠せ」は、戦国時代の名将・武田信玄が死に際して遺したとされる有名な遺言(伝え話)です。
主な内容と背景
* 発言者: 武田信玄
* 遺言の内容: 自分が死んだことを3年間は秘密にし、喪(も)を隠すよう命じたとされています。
*
* ねらい:
* 自分が亡くなったことが敵対する諸大名(織田信長や徳川家康など)に知られると、すぐ領地に攻め込まれるのを防ぐため。
* 後継者である武田勝頼(または嫡孫・信勝)が体制を立て直し、家を守るための時間を稼ぐため。
*
実際のところは?
* 実行されたか:
* 信玄の死後、跡を継いだ勝頼らは、信玄の弟である武田信廉(のぶかど)を影武者に立てるなどして、しばらくの間は死を伏せようと努めました。
* 現実はどうだったか:
* 徳川家康や上杉謙信といった大名たちには、3年も経たず(翌月には)その死を見抜かれていたとみられています。
* 『甲陽軍鑑』の伝説や、黒澤明監督の映画『影武者』のモチーフなどとしても広く知られています。
武田信玄の家臣団の中で「最強」と称される武将は、個人の武勇や功績によって諸説ありますが、特に「武田四天王(武田四名臣)」や「武田二十四将」に含まれる以下の名将たちが特に最強候補として挙げられます。
最強と称される主要な家臣たち
* 馬場信春(信房)[ばば のぶはる / のぶふさ]
* 「不死身の鬼美濃」の異名を持ち、合戦で一度もかすり傷すらいっさい負わなかったと伝えられる猛将です。
* 築城や用兵にも優れ、武田四天王の一人として信玄の信頼を厚く集めました。
* 山県昌景[やまがた まさかげ]
* 真っ赤な甲冑で揃えた部隊「赤備え(あかぞなえ)」を率い、敵軍を震え上がらせた最強の突撃隊長です。
* 織田・徳川連合軍と戦った長篠の戦いでも先陣を切って猛勇を振るいました。
*
* 内藤昌豊(昌秀)[ないとう まさとよ]
* 智勇兼備の将として知られ、信玄からの信頼が非常に厚く、常に冷静な判断で武田軍を支えた名将です。
* 高坂昌信(春日虎綱)[こうさか まさのぶ / かすが とらつな]
* 「逃げ弾正」の異名を持ち、退却戦の巧みさや調略・築城(海津城代)において抜群の才を発揮した智将です。
* 武田信繁[たけだ のぶしげ]
* 信玄の弟で、武望・人望ともに厚く、信玄自身が「本当の副大将は信繁である」と深く敬愛した人物です。第四次川中島の戦いで信玄を守って討死しました。
強さの理由
武田信玄は「人は城、人は石垣、人は濠」という言葉を残した通り、個人の武勇だけに頼らず、身分に関わらず優れた才能を持つ人材を抜擢して組織的に運用しました。そのため、一人というよりも「チームとしての武田家臣団(武田軍団)」全体が戦国最強と恐れられました。
「死は3年隠せ」は、戦国時代の名将・武田信玄が死に際して遺したとされる有名な遺言(伝え話)です。
主な内容と背景
* 発言者: 武田信玄
* 遺言の内容: 自分が死んだことを3年間は秘密にし、喪(も)を隠すよう命じたとされています。
*
* ねらい:
* 自分が亡くなったことが敵対する諸大名(織田信長や徳川家康など)に知られると、すぐ領地に攻め込まれるのを防ぐため。
* 後継者である武田勝頼(または嫡孫・信勝)が体制を立て直し、家を守るための時間を稼ぐため。
*
実際のところは?
* 実行されたか:
* 信玄の死後、跡を継いだ勝頼らは、信玄の弟である武田信廉(のぶかど)を影武者に立てるなどして、しばらくの間は死を伏せようと努めました。
* 現実はどうだったか:
* 徳川家康や上杉謙信といった大名たちには、3年も経たず(翌月には)その死を見抜かれていたとみられています。
* 『甲陽軍鑑』の伝説や、黒澤明監督の映画『影武者』のモチーフなどとしても広く知られています。
342名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW ca5f-hQ4V)
2026/11/04(水) 19:04:36.76ID:MLX090nr0 病院行って、しっかり休まれた方がよいと思います。に通っている先生、割と聞きますよ。 自分を大切に、お大事になさってください。
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そんな人の為に自分の人生棒に振らないでほしいなぁ。
大人になっても
いじめってめちゃくちゃ存在するよね
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
ストーカーに人権は要らんだろ
心壊れるまで頑張らなくていいし
そんななるまで耐えなくていい。
代わりはいくらでもいるから
何も考えなくていいから
自分の心を守ってあげて欲しい。
壊れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
ストーカー?😊
大変なことになる前に対処してください
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そんな人の為に自分の人生棒に振らないでほしいなぁ。
大人になっても
いじめってめちゃくちゃ存在するよね
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
ストーカーに人権は要らんだろ
心壊れるまで頑張らなくていいし
そんななるまで耐えなくていい。
代わりはいくらでもいるから
何も考えなくていいから
自分の心を守ってあげて欲しい。
壊れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
ストーカー?😊
大変なことになる前に対処してください
343名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW ca5f-hQ4V)
2026/11/04(水) 19:05:37.72ID:MLX090nr0 病院行って、しっかり休まれた方がよいと思います。に通っている先生、割と聞きますよ。 自分を大切に、お大事になさってください。
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そんな人の為に自分の人生棒に振らないでほしいなぁ。
大人になっても
いじめってめちゃくちゃ存在するよね
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
ストーカーに人権は要らんだろ
心壊れるまで頑張らなくていいし
そんななるまで耐えなくていい。
代わりはいくらでもいるから
何も考えなくていいから
自分の心を守ってあげて欲しい。
壊れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
ストーカー?😊
大変なことになる前に対処してください
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そんな人の為に自分の人生棒に振らないでほしいなぁ。
大人になっても
いじめってめちゃくちゃ存在するよね
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
ストーカーに人権は要らんだろ
心壊れるまで頑張らなくていいし
そんななるまで耐えなくていい。
代わりはいくらでもいるから
何も考えなくていいから
自分の心を守ってあげて欲しい。
壊れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
ストーカー?😊
大変なことになる前に対処してください
344名無しさん@実況は禁止ですよ (ワイーワ2W FF12-hQ4V)
2026/11/04(水) 19:15:05.95ID:fjgLjkXWF https://www.threads....om/share/BADj8IFglj/
それは多過ぎる。昔と違いだいぶ甘々になってるのに。まぁ、生き残った者が頑張ればいい。
私が母なら、もう多分状況的に色々察せるだろうし お願いだから娘は生きて欲しいと思うから、急いで逃げてくれ何があっても生きてくれと頼みます
彼女も頑張ってるんや。応援できんのなら静かにしたったれよ。
理由がわからないのですが、何か嫌がらせでもされたのですか?yes
わかります。特に若い子に対する中年の言葉がひどい。世代が違えば価値観や許容が変わっていて当たり前なのに大昔の基準で責め立てるのは異常
やばいね、スレッズ
イジメと変わらないよ
人はまわりの人に似ていく。
ならば、悪い人のそばにいてはいけない。
それは多過ぎる。昔と違いだいぶ甘々になってるのに。まぁ、生き残った者が頑張ればいい。
私が母なら、もう多分状況的に色々察せるだろうし お願いだから娘は生きて欲しいと思うから、急いで逃げてくれ何があっても生きてくれと頼みます
彼女も頑張ってるんや。応援できんのなら静かにしたったれよ。
理由がわからないのですが、何か嫌がらせでもされたのですか?yes
わかります。特に若い子に対する中年の言葉がひどい。世代が違えば価値観や許容が変わっていて当たり前なのに大昔の基準で責め立てるのは異常
やばいね、スレッズ
イジメと変わらないよ
人はまわりの人に似ていく。
ならば、悪い人のそばにいてはいけない。
345名無しさん@実況は禁止ですよ (ワイーワ2W FF12-hQ4V)
2026/11/04(水) 19:27:47.25ID:wvHxNAOmF 人間ちゃんと伝えないと損するよなーと思う。
バレる嘘がどれだけ人の気持ちを不快にさせるか。
もったいないね
病院行って、しっかり休まれた方がよいと思います。自分を大切に、お大事になさってください。
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
自分の心を守ってあげて欲しい。
れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
大変な事になる前に対処してください
それは多過ぎる。昔と違いだいぶ甘々になってるのに。まぁ、生き残った者が頑張ればいい。
私が母なら、もう多分状況的に色々察せるだろうし
お願いだから娘は生きて欲しいと思うから、急いで逃げてくれ何があっても生きてくれと頼みます
彼女も頑張ってるんや。応援できんのなら静かにしたったれよ。
理由がわからないのですが、何か嫌がらせでもされたのですか?yes
わかります。特に若い子に対する中年の言葉がひどい。世代が違えば価値観や許容が変わっていて当たり前なのに大昔の基準で責め立てるのは異常
バレる嘘がどれだけ人の気持ちを不快にさせるか。
もったいないね
病院行って、しっかり休まれた方がよいと思います。自分を大切に、お大事になさってください。
休んで☺
時には自分の身を守る為に逃げていいんですよ☺
大丈夫。大丈夫。
一旦深呼吸。
自分を守る事を優先して。
通りすがりですが、貴方が心配です。
逃げていいこともある。自分を大事にしてください。
少し離れたほうがいいですよ
自分を大切にしてください。
謝らなくて大丈夫😌
助けを求められたのがんばったじゃん😉
通りすがりですが
助けたい!
しばらくお仕事休もう!
しっかり寝て、おいしいものを食べて、元気になって。
何と言っても自分の命が大切だよ。ゆっくり休んで。
何も考えなくていいから、ご自身の心を守ってください。
一旦その場から離れましょう。
大丈夫ですか?
助けは沢山求めて大丈夫!
そしてそのターゲットにされやすいのは
すごくまともな人。
自分の心を守ってあげて欲しい。
れた自分を決して責めないで。
いっぱいいっぱい褒めてあげて欲しい。
大変な事になる前に対処してください
それは多過ぎる。昔と違いだいぶ甘々になってるのに。まぁ、生き残った者が頑張ればいい。
私が母なら、もう多分状況的に色々察せるだろうし
お願いだから娘は生きて欲しいと思うから、急いで逃げてくれ何があっても生きてくれと頼みます
彼女も頑張ってるんや。応援できんのなら静かにしたったれよ。
理由がわからないのですが、何か嫌がらせでもされたのですか?yes
わかります。特に若い子に対する中年の言葉がひどい。世代が違えば価値観や許容が変わっていて当たり前なのに大昔の基準で責め立てるのは異常
346名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:50:09.62ID:k5mfuPRX0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
347名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:52:02.85ID:k5mfuPRX0 ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
348名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:54:13.92ID:k5mfuPRX0 父に褒められたお芝居
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
349名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:58:23.72ID:k5mfuPRX0 出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。
アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。
アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
350名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:00:11.86ID:kaxkCU4S0 「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
351名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:01:27.54ID:kaxkCU4S0 「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
352名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:06:44.58ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
353名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:10:50.03ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
354名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:15:45.16ID:kaxkCU4S0 最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
355名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:20:52.34ID:kaxkCU4S0 心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
356名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:22:16.58ID:kaxkCU4S0 オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
357名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:23:32.50ID:kaxkCU4S0 オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
358名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:32:07.26ID:kaxkCU4S0 「こんなん誰が買うねん」から6万いいね!ダイソー「パスワード管理ノート」が今バズっている“切実な理由”
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
359名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:35:23.41ID:fcdRBS+Q0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
360名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:35:23.53ID:fcdRBS+Q0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
361名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:38:20.17ID:fcdRBS+Q0 オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を得た。その後パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入学し、ピエールフィットの祖母の家から通った。ユトリロは優秀な成績を収めていたが、最高学年に進んだ際問題を多々起こし、中学を退学した。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。
362名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:41:11.46ID:fcdRBS+Q0 画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。
363名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:48:44.81ID:fcdRBS+Q0 ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。ヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくはいかなかった。4月末から5月の初めにかけてユトリロの健康状態は悪化した。アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した。入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。ヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくはいかなかった。4月末から5月の初めにかけてユトリロの健康状態は悪化した。アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した。入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。
364名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:50:51.55ID:fcdRBS+Q0 彼は芸術家だったためルヴェルテガ博士は絵を描くことを勧め、ユトリロは多くの絵を描いた。治療は効果的で、7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを医師は認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容をユトリロに迫った。ユトリロは提案者である友人リッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2か月以上休暇を過ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1か月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドンは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた[3]。10月末に全員がパリに戻った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。
365名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:52:40.94ID:fcdRBS+Q0 彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロはまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロは数百点に及ぶ作品を残している。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
366名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:55:52.47ID:kaxkCU4S0 アルコール依存症
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
署名
ユトリロは絵画に署名する際、Maurice Utrillo V.と記した。これはかつての姓であったValadonの頭文字であり、自分の母親の喪失を告発するものと考えられている[7]。
代表作
* ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
* ラヴィニャン街の眺め(1911 - 1915年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
* サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
* パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
* ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
*
研究史
1913年の初めての個展の際、アドルフ・タバランが唯一1913年5月13日の『アクシオン(英語版)』に偽名で展覧会評を書いた。1921年末、フランス新評論よりフランシス・カルコによるユトリロの作品に関する最初の批評的研究書『モーリス・ユトリロとその作品』が出版された。
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
署名
ユトリロは絵画に署名する際、Maurice Utrillo V.と記した。これはかつての姓であったValadonの頭文字であり、自分の母親の喪失を告発するものと考えられている[7]。
代表作
* ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
* ラヴィニャン街の眺め(1911 - 1915年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
* サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
* パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
* ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
*
研究史
1913年の初めての個展の際、アドルフ・タバランが唯一1913年5月13日の『アクシオン(英語版)』に偽名で展覧会評を書いた。1921年末、フランス新評論よりフランシス・カルコによるユトリロの作品に関する最初の批評的研究書『モーリス・ユトリロとその作品』が出版された。
367名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:11:17.39ID:kaxkCU4S0 いまこそ「紙」ではじめよう
私たちの周りには様々なオンラインサービスが溢れています。ネットショッピング、オンラインバンキング、SNS、サブスクなど…その形はさまざまです。 皆さんは、そんなたくさんのパスワードをどう管理していますか?ほとんどの人がスマホのメモ帳やブラウザの自動保存機能、パスワード管理アプリなどを使っていると思います。 しかし現在、「あえて紙で管理する」という選択が注目を集めています。
ネットに頼らないからこそ、安心できる
「紙でパスワードを管理するなんて時代遅れでは?」と思うかもしれません。しかし、どれだけ強固なパスワードを設定していても、ネットに繋がっている限り、絶対に安全ではありません。デジタル機器やブラウザに保存された情報は、ウイルス感染や不正アクセスをされた場合、あっという間に情報が流出してしまうリスクを持っています。
そんなパスワードも、紙のノートならハッキングされる可能性はゼロ。紛失などのリスクはもちろんありますが、保管場所にさえ気をつければ、むしろ堅実で安全な管理方法です。 デジタルとアナログを分けて管理する、ここに安心の根拠があります。
そこに「在る」安心感
「スマホが壊れた」「アプリが使えなくなった」というトラブルも、紙は関係ありません。電源もWi-Fiも必要なく、在ればすぐに確認できます。「そこに在る」ということは、最もシンプルで確実な手段なのです。
さらに、紙の管理帳は、家族にも共有しやすいという大きなメリットがあります。もしもの時、デジタル管理だと「ロックがかかっていて中が見られない」「サービスの使い方がわからない」といった問題も発生します。紙であれば、その在処を伝えておけばよいだけです。
誰かに見られるのでは?
この様な不安を持つ方もいらっしゃるかと思いますが、パスワード管理帳は非常に「目立ちにくく」作ってあります。上製本仕上げなので、本棚にしまっておいてもひと目で「それ」だとわかりにくいデザインです。「葉を隠すなら森の中」です。
それでもまだ心配な方は、ノートは鍵付きの引き出しにしまったり、金庫などに保管することで、より強力にプライバシーを守れます。
商品紹介
パスワード管理帳
保存性に優れたハードカバー仕上げ。パスワードをまとめて管理でき、家庭用金庫や鍵付きキャビネット、本棚にすっと収まるスリムサイズ。万が一の事態に備えて、大切な情報を、より安全に保管していただけます。発行部数4万部超えの東洋図書出版の大ヒット商品です。
私たちの周りには様々なオンラインサービスが溢れています。ネットショッピング、オンラインバンキング、SNS、サブスクなど…その形はさまざまです。 皆さんは、そんなたくさんのパスワードをどう管理していますか?ほとんどの人がスマホのメモ帳やブラウザの自動保存機能、パスワード管理アプリなどを使っていると思います。 しかし現在、「あえて紙で管理する」という選択が注目を集めています。
ネットに頼らないからこそ、安心できる
「紙でパスワードを管理するなんて時代遅れでは?」と思うかもしれません。しかし、どれだけ強固なパスワードを設定していても、ネットに繋がっている限り、絶対に安全ではありません。デジタル機器やブラウザに保存された情報は、ウイルス感染や不正アクセスをされた場合、あっという間に情報が流出してしまうリスクを持っています。
そんなパスワードも、紙のノートならハッキングされる可能性はゼロ。紛失などのリスクはもちろんありますが、保管場所にさえ気をつければ、むしろ堅実で安全な管理方法です。 デジタルとアナログを分けて管理する、ここに安心の根拠があります。
そこに「在る」安心感
「スマホが壊れた」「アプリが使えなくなった」というトラブルも、紙は関係ありません。電源もWi-Fiも必要なく、在ればすぐに確認できます。「そこに在る」ということは、最もシンプルで確実な手段なのです。
さらに、紙の管理帳は、家族にも共有しやすいという大きなメリットがあります。もしもの時、デジタル管理だと「ロックがかかっていて中が見られない」「サービスの使い方がわからない」といった問題も発生します。紙であれば、その在処を伝えておけばよいだけです。
誰かに見られるのでは?
この様な不安を持つ方もいらっしゃるかと思いますが、パスワード管理帳は非常に「目立ちにくく」作ってあります。上製本仕上げなので、本棚にしまっておいてもひと目で「それ」だとわかりにくいデザインです。「葉を隠すなら森の中」です。
それでもまだ心配な方は、ノートは鍵付きの引き出しにしまったり、金庫などに保管することで、より強力にプライバシーを守れます。
商品紹介
パスワード管理帳
保存性に優れたハードカバー仕上げ。パスワードをまとめて管理でき、家庭用金庫や鍵付きキャビネット、本棚にすっと収まるスリムサイズ。万が一の事態に備えて、大切な情報を、より安全に保管していただけます。発行部数4万部超えの東洋図書出版の大ヒット商品です。
368名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:12:24.35ID:kaxkCU4S0 「こんなん誰が買うねん」から6万いいね!ダイソー「パスワード管理ノート」が今バズっている“切実な理由”
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
369名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:28:43.48ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
370名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:33:54.07ID:kaxkCU4S0 父に褒められたお芝居
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
371名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:37:38.90ID:kaxkCU4S0 このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
372名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:41:31.89ID:kaxkCU4S0 ハーバートは13歳も年上で、役者をにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
373名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:42:56.57ID:kaxkCU4S0 世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。
当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。
当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
374名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:49:52.99ID:kaxkCU4S0 すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
375名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:52:23.33ID:kaxkCU4S0 ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
376名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:00:02.24ID:kaxkCU4S0 そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
377名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:10:28.22ID:kaxkCU4S0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。
378名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:12:21.90ID:kaxkCU4S0 1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を得た。その後パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入学し、ピエールフィットの祖母の家から通った。ユトリロは優秀な成績を収めていたが、最高学年に進んだ際問題を多々起こし、中学を退学した。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。
379名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:14:45.04ID:kaxkCU4S0 1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。
380名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:29:23.17ID:kaxkCU4S0 治療は効果的で、7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを医師は認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容をユトリロに迫った。ユトリロは提案者である友人リッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2か月以上休暇を過ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1か月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドンは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた[3]。10月末に全員がパリに戻った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。
381名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:32:22.58ID:kaxkCU4S0 3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロはまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロは数百点に及ぶ作品を残している。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
父親について
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
父親について
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
382名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:33:23.80ID:kaxkCU4S0 アルコール依存症
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
383名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:39:39.39ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
384名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:57:46.36ID:kaxkCU4S0 1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
385名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:49:00.09ID:kaxkCU4S0 「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは
386名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:50:33.65ID:kaxkCU4S0 「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
387名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:56:23.92ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
388名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 10:00:29.59ID:kaxkCU4S0 最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。 彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。 彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
389名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 10:02:31.18ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
390名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 14:01:33.45ID:kaxkCU4S0 度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985
391名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM06-81CF)
2026/11/06(金) 19:08:10.84ID:Fxr37KAhM ( ´,_ゝ`)プッ 3266
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2026/11/06(金) 23:15:10.64ID:hoNfT3YzM ( ´,_ゝ`)プッ 7898
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2026/11/07(土) 18:15:01.65ID:uRGAqCYqM ( ´,_ゝ`)プッ 7785
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2026/11/07(土) 21:08:10.02ID:/m/xUz4z0 さすがボッタクリ価格でパワーストーンを売るしか能がない天川と観音であった。たいした活躍もできずにミジメよのぅwww
395名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM6b-rXbC)
2026/11/08(日) 02:53:31.96ID:31TSaqsjM ( ´,_ゝ`)プッ 8111
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