【天川龍一】龍粋社【坂本観音】part8
1名無しさん@実況は禁止ですよ (ブーイモ MM43-TY43)
2026/09/19(土) 00:12:33.08ID:EhKAczBHM 龍粋社について語りましょう
346名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:50:09.62ID:k5mfuPRX0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
347名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:52:02.85ID:k5mfuPRX0 ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
348名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:54:13.92ID:k5mfuPRX0 父に褒められたお芝居
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
349名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/05(木) 23:58:23.72ID:k5mfuPRX0 出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。
アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。
アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
350名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:00:11.86ID:kaxkCU4S0 「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
351名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:01:27.54ID:kaxkCU4S0 「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
352名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:06:44.58ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
353名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:10:50.03ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
354名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:15:45.16ID:kaxkCU4S0 最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
355名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:20:52.34ID:kaxkCU4S0 心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
356名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:22:16.58ID:kaxkCU4S0 オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
357名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 00:23:32.50ID:kaxkCU4S0 オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
358名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:32:07.26ID:kaxkCU4S0 「こんなん誰が買うねん」から6万いいね!ダイソー「パスワード管理ノート」が今バズっている“切実な理由”
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
359名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:35:23.41ID:fcdRBS+Q0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
360名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:35:23.53ID:fcdRBS+Q0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。
361名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:38:20.17ID:fcdRBS+Q0 オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を得た。その後パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入学し、ピエールフィットの祖母の家から通った。ユトリロは優秀な成績を収めていたが、最高学年に進んだ際問題を多々起こし、中学を退学した。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。
362名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:41:11.46ID:fcdRBS+Q0 画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。
363名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:48:44.81ID:fcdRBS+Q0 ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。ヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくはいかなかった。4月末から5月の初めにかけてユトリロの健康状態は悪化した。アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した。入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。ヴァラドンはこれに対抗しようとしたがうまくはいかなかった。4月末から5月の初めにかけてユトリロの健康状態は悪化した。アドルフ・タバランはリボードのもとを訪れ、責任を持って芸術家を病院に入れるように促したが、リボードはそれを拒否した。そのためリボードとヴァラドンの関係がさらに悪化し、最終的にリボードはモーリスの入院費用を支払うこととなった。サノワのルヴェルテガのもとに受け入れられ、すぐに健康を回復した。入院中ユトリロは、精神障害者を一時的に居住者として扱う病院の「オープン=ドア」システムのおかげで病院を出ることが許された。
364名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:50:51.55ID:fcdRBS+Q0 彼は芸術家だったためルヴェルテガ博士は絵を描くことを勧め、ユトリロは多くの絵を描いた。治療は効果的で、7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを医師は認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容をユトリロに迫った。ユトリロは提案者である友人リッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2か月以上休暇を過ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1か月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドンは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた[3]。10月末に全員がパリに戻った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。
365名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW fe7d-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:52:40.94ID:fcdRBS+Q0 彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロはまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロは数百点に及ぶ作品を残している。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
366名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 06:55:52.47ID:kaxkCU4S0 アルコール依存症
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
署名
ユトリロは絵画に署名する際、Maurice Utrillo V.と記した。これはかつての姓であったValadonの頭文字であり、自分の母親の喪失を告発するものと考えられている[7]。
代表作
* ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
* ラヴィニャン街の眺め(1911 - 1915年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
* サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
* パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
* ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
*
研究史
1913年の初めての個展の際、アドルフ・タバランが唯一1913年5月13日の『アクシオン(英語版)』に偽名で展覧会評を書いた。1921年末、フランス新評論よりフランシス・カルコによるユトリロの作品に関する最初の批評的研究書『モーリス・ユトリロとその作品』が出版された。
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
署名
ユトリロは絵画に署名する際、Maurice Utrillo V.と記した。これはかつての姓であったValadonの頭文字であり、自分の母親の喪失を告発するものと考えられている[7]。
代表作
* ラパン・アジル(1910年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* コタンの袋小路(1911年)(パリ、ポンピドゥー・センター)
* パリのサント=マルグリート教会(1911年)(ドイツ、マンハイム市立美術館)
* ラヴィニャン街の眺め(1911 - 1915年)(ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
* サン=セヴランの聖堂(1912年)(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)
* パリ郊外(1910年) (倉敷、大原美術館)
* ノルヴァン通(1910年) (名古屋、名古屋市美術館)
*
研究史
1913年の初めての個展の際、アドルフ・タバランが唯一1913年5月13日の『アクシオン(英語版)』に偽名で展覧会評を書いた。1921年末、フランス新評論よりフランシス・カルコによるユトリロの作品に関する最初の批評的研究書『モーリス・ユトリロとその作品』が出版された。
367名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:11:17.39ID:kaxkCU4S0 いまこそ「紙」ではじめよう
私たちの周りには様々なオンラインサービスが溢れています。ネットショッピング、オンラインバンキング、SNS、サブスクなど…その形はさまざまです。 皆さんは、そんなたくさんのパスワードをどう管理していますか?ほとんどの人がスマホのメモ帳やブラウザの自動保存機能、パスワード管理アプリなどを使っていると思います。 しかし現在、「あえて紙で管理する」という選択が注目を集めています。
ネットに頼らないからこそ、安心できる
「紙でパスワードを管理するなんて時代遅れでは?」と思うかもしれません。しかし、どれだけ強固なパスワードを設定していても、ネットに繋がっている限り、絶対に安全ではありません。デジタル機器やブラウザに保存された情報は、ウイルス感染や不正アクセスをされた場合、あっという間に情報が流出してしまうリスクを持っています。
そんなパスワードも、紙のノートならハッキングされる可能性はゼロ。紛失などのリスクはもちろんありますが、保管場所にさえ気をつければ、むしろ堅実で安全な管理方法です。 デジタルとアナログを分けて管理する、ここに安心の根拠があります。
そこに「在る」安心感
「スマホが壊れた」「アプリが使えなくなった」というトラブルも、紙は関係ありません。電源もWi-Fiも必要なく、在ればすぐに確認できます。「そこに在る」ということは、最もシンプルで確実な手段なのです。
さらに、紙の管理帳は、家族にも共有しやすいという大きなメリットがあります。もしもの時、デジタル管理だと「ロックがかかっていて中が見られない」「サービスの使い方がわからない」といった問題も発生します。紙であれば、その在処を伝えておけばよいだけです。
誰かに見られるのでは?
この様な不安を持つ方もいらっしゃるかと思いますが、パスワード管理帳は非常に「目立ちにくく」作ってあります。上製本仕上げなので、本棚にしまっておいてもひと目で「それ」だとわかりにくいデザインです。「葉を隠すなら森の中」です。
それでもまだ心配な方は、ノートは鍵付きの引き出しにしまったり、金庫などに保管することで、より強力にプライバシーを守れます。
商品紹介
パスワード管理帳
保存性に優れたハードカバー仕上げ。パスワードをまとめて管理でき、家庭用金庫や鍵付きキャビネット、本棚にすっと収まるスリムサイズ。万が一の事態に備えて、大切な情報を、より安全に保管していただけます。発行部数4万部超えの東洋図書出版の大ヒット商品です。
私たちの周りには様々なオンラインサービスが溢れています。ネットショッピング、オンラインバンキング、SNS、サブスクなど…その形はさまざまです。 皆さんは、そんなたくさんのパスワードをどう管理していますか?ほとんどの人がスマホのメモ帳やブラウザの自動保存機能、パスワード管理アプリなどを使っていると思います。 しかし現在、「あえて紙で管理する」という選択が注目を集めています。
ネットに頼らないからこそ、安心できる
「紙でパスワードを管理するなんて時代遅れでは?」と思うかもしれません。しかし、どれだけ強固なパスワードを設定していても、ネットに繋がっている限り、絶対に安全ではありません。デジタル機器やブラウザに保存された情報は、ウイルス感染や不正アクセスをされた場合、あっという間に情報が流出してしまうリスクを持っています。
そんなパスワードも、紙のノートならハッキングされる可能性はゼロ。紛失などのリスクはもちろんありますが、保管場所にさえ気をつければ、むしろ堅実で安全な管理方法です。 デジタルとアナログを分けて管理する、ここに安心の根拠があります。
そこに「在る」安心感
「スマホが壊れた」「アプリが使えなくなった」というトラブルも、紙は関係ありません。電源もWi-Fiも必要なく、在ればすぐに確認できます。「そこに在る」ということは、最もシンプルで確実な手段なのです。
さらに、紙の管理帳は、家族にも共有しやすいという大きなメリットがあります。もしもの時、デジタル管理だと「ロックがかかっていて中が見られない」「サービスの使い方がわからない」といった問題も発生します。紙であれば、その在処を伝えておけばよいだけです。
誰かに見られるのでは?
この様な不安を持つ方もいらっしゃるかと思いますが、パスワード管理帳は非常に「目立ちにくく」作ってあります。上製本仕上げなので、本棚にしまっておいてもひと目で「それ」だとわかりにくいデザインです。「葉を隠すなら森の中」です。
それでもまだ心配な方は、ノートは鍵付きの引き出しにしまったり、金庫などに保管することで、より強力にプライバシーを守れます。
商品紹介
パスワード管理帳
保存性に優れたハードカバー仕上げ。パスワードをまとめて管理でき、家庭用金庫や鍵付きキャビネット、本棚にすっと収まるスリムサイズ。万が一の事態に備えて、大切な情報を、より安全に保管していただけます。発行部数4万部超えの東洋図書出版の大ヒット商品です。
368名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:12:24.35ID:kaxkCU4S0 「こんなん誰が買うねん」から6万いいね!ダイソー「パスワード管理ノート」が今バズっている“切実な理由”
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
6万いいねの反響!110円の「パスワード管理ノート」
「こんなん誰が買うねん、と思ってたけど、今の時代はアナログな管理が最強やと思う…」。2026年11月1日、あるXユーザーの投稿が瞬く間に拡散され、6万件を超える「いいね」を獲得しました。 【画像】「おお!中身はこうなってる!」これが、ダイソーの「パスワード管理ノート」です! 話題の中心となったのは、ダイソーの文房具コーナーなどで販売されている「パスワード管理ノート」(税込み110円)です。手のひらサイズの薄型ノート(約14.2cm×9.5cm)で、サイト名、ID、パスワード(3行分)、メールアドレス、メモ欄が最初から印字されています。最大76件のアカウント情報が整理でき、パスワード変更時の履歴も残しやすい構造が特徴です。
再注目の背景にある「情報漏えい疲れ」
なぜ今、このアナログなノートがこれほど注目されているのでしょうか。背景にあるのは、深刻化する「情報漏えい疲れ」です。 2026年は大規模な情報流出事件が相次ぎ、10月前半だけでも不正アクセスによる漏えい報告が830件に上るなど、デジタルのセキュリティに対する不安が高まっています。 「最近情報漏えいが怖いし良いね」「AIが身近になったからこそアナログが必要」といったSNSの声からもわかるように、クラウドやアプリにすべてを預けることへの警戒感が、ネット経由の漏えいリスクがゼロである「紙ノート」の再評価につながっているのです。
専門家も認める?「紙」のメリットと賢い使い方
もちろん、アナログ管理の最大の弱点は「物理的な紛失・盗難リスク」です。そのため、ノートの保管には厳重な注意が必要です。
SNS上の利用者からは、「一部を伏せ字にする」「パスワードの3文字目を頭に書いて自分だけのルールを作る」「絶対に持ち歩かず、自宅の鍵付き引き出しで保管する」といった実践的な工夫が多く寄せられています。 すべてを紙で管理するのではなく、絶対に忘れたくない重要なアカウントのバックアップとして使い、多要素認証(2段階認証)と併用するのが、現代におけるもっとも現実的な“アナログ活用法”と言えそうです。
369名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:28:43.48ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
370名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:33:54.07ID:kaxkCU4S0 父に褒められたお芝居
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
371名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:37:38.90ID:kaxkCU4S0 このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
372名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:41:31.89ID:kaxkCU4S0 ハーバートは13歳も年上で、役者をにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
373名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:42:56.57ID:kaxkCU4S0 世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。
当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。
当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。
彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
374名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:49:52.99ID:kaxkCU4S0 すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
375名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 07:52:23.33ID:kaxkCU4S0 ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
しかし、その間も病を圧しての仕事のストレスからものを大量に食べ、その度に増えた体重を戻すかのようにまた何も食べなくなることを繰り返し、慢性的に体力がない状態であり、結核も患っていた。
376名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:00:02.24ID:kaxkCU4S0 そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985 「Living Famously Vivien Leigh」2003
※本記事は当時のhalf-breed, mixed-bloodといった差別的観念を表すため「混血」という単語を使用しています。
(画像)オリヴィエからヴィヴィアンに送られた金の指輪。2017年サザビーズでオークションにかけられた
377名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:10:28.22ID:kaxkCU4S0 モーリス・ユトリロ
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。
フランスの画家 (1883-1955)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。生誕時の姓はヴァラドンであったが、7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョに認知され、「モーリス・ユトリロ」となった。
ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという(後述)。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。パリ郊外のサノワにはモーリス・ユトリロ美術館(フランス語版)がかつて存在したまたモンマルトルにある墓には献花が絶えない。
生涯
1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に位置するポトー街8番地にて、午後1時頃シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、モーリスと名付けられる。彼が生まれた時、母親は針子をしながらも既に画家として活動していた。そのため、息子モーリスは身体が弱く情緒不安定であったにもかかわらず、シュザンヌは息子の世話を母親マドレーヌに任せた。2歳の頃、モーリスはてんかんの発作に見舞われ、その後も後遺症が残った。
少年時代
就学しても学校に馴染めず、公立学校から別の学校に転校している。この頃、母ヴァラドンは画家として成功しており、息子モーリスをラバ街のフレスネルという私立学校に入れている。7歳の時、スペイン人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウス[1][2]が、モーリスを自分の息子として認知し、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された。また、ヴァラドンはそのミゲルを通じてエリック・サティと愛人関係を結ぶが、数か月でその関係も終わる。モーリス・ユトリロが8歳のときヴァラドンは息子を精神病のため病院へ連れて行く。1894年半ばからヴァラドンは布地商であるポール・ムージスと同棲し、11月にコルトー街2-4番地に引っ越す。ここでヴァラドンは自宅にアトリエを構え、絵画に専念するようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定した生活を得る。
378名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:12:21.90ID:kaxkCU4S0 1896年にムージスとヴァラドンは18区の役所にて結婚。またムージスの財力によりユトリロをピエールフィットのモランという私立小学校の寄宿舎に預け、この町のサン=ドニ通り18番地に家を借り、毎週日曜日にヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロの元を訪れた。オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を得た。その後パリ市内トリュデーヌ大通りのロラン中学第五学級に入学し、ピエールフィットの祖母の家から通った。ユトリロは優秀な成績を収めていたが、最高学年に進んだ際問題を多々起こし、中学を退学した。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。
青年期
1900年2月、ムージスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。この頃ムージスがモンマニーのパンソンの丘の上に小さなブドウ畑を手に入れ、そこに4階建ての館を建てた。1902年ユトリロはモンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住み着く。この頃から水彩画を描く練習を始めた。エトランジェ医師はヴァラドンに彼が興味を持ったことはやりたいようにさせることを勧めた。ユトリロは最初から真剣にやろうとはしなかったが、一家でモンマニーに滞在した際、最初の風景画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、彼の精神は蝕まれていった。1904年の初頭にポール・ムージスに連れられて、パリのサン=タンヌ精神病院に入院した。これがきっかけでヴァラドンとムージスの間に溝が生まれ、後の1909年二人は破局を迎える。5月に症状の改善が見られたユトリロはモンマニーに戻り、周囲を驚かせるほど穏やかであったという。
画家としての出発
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
印象派時代
ユトリロとユッテルはモンマルトルの丘に絵を描きに行ったり、共に飲みに行ったりしていた。この頃ポール・ムージスとの仲が冷めつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介でユッテルと知り合う。ユトリロは画家であることによって肉体的にも精神的にも監禁状態から解放されていた。1907年から1908年にかけての彼の絵画はシスレーの回顧展の影響を受けつつ、それ以上に画面の奥行きの追及や堅牢さを獲得した線、深められたデッサンなどの独自の構図を築いた。絵画は厚塗りのままだったが、白からマチエールが生まれた。一方で当時の彼には画商はついておらず、自身も自分の作品を売ろうとは考えていなかった。
白の時代
この頃がモーリス・ユトリロの画家としての絶頂期として高く評価されている。1909年の春、翌年モーリスの画商となったルイ・リボートが最初の買い手として現れる。
これ以前にもモーリスは売ってくれる者であれば誰にでも絵画を売り渡したが、画商としてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊を訪れ、ユトリロの作品に目を留め、ヴァラドンに絵画の売買が可能か否か問い合わせた。この時代はユトリロが初期のパリとランスの大聖堂を描いていた時代であった。リボートは委託販売をしていたサゴに手数料を払うよりも、シュザンヌと直接取引をしたがった。1909年ユトリロはサロン・ドートンヌに2点出品した。これがユトリロの作品が世に出た初めての展覧会であった。このうち一つが彼の代表作の一つであるノートルダム橋であった。同年ヴァラドン=ムージス夫妻が破局を迎えた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向かいに位置するコルトー街12番地のアトリエを独占したが、年内にユトリロとクロー婆さんと共にモンマニーのパンソンの丘の館に移住した。ムージスはこの頃離婚の手続きを開始し、ヴァラドンの一切を拒絶した。
そのためモンマニーに移り住んだ一家は経済問題に直面することとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入が全くなかった。一時期はユトリロを石膏採掘場に労働に行かせたが、公衆の面前で大暴れし警察沙汰になり終わった。ユッテルはユトリロの冒した失態の仲裁を務めた。また時間があったときはユトリロは自身の描いた絵を売ろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能を理解していた。モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品の購入、転売に成功し利益を得た。
379名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:14:45.04ID:kaxkCU4S0 1911年ヴァラドン側の過失としてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとの間の離婚がセーヌ県裁判所控訴院で確定したにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンの丘の館とコルトー街のアトリエを保持した。一方ユトリロはアルコールの影響を受け続け、泥酔した際にそのこと自体と猥褻の罪で起訴され、罰金刑を受けている。この年の秋にユトリロは、セザール・ゲイという元警察官と知り合う。彼は「カス=クルート」という酒場を開くと同時にマリー・ヴィズィエが経営していた「ベル・ガブリエル」という店を所有していた。ユトリロはそこに出入りし飲食するだけではなく、二人は彼に店の奥で絵を描くことを許した。完成した絵はゲイが自分のカフェのホールに掛け、それが好評を博し、芸術家としてモンマルトル一帯に認知されるようになった。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。
1912年にリボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬と引き換えにした。これは一家の経済的安定をもたらしたが、同時にユッテルが自身の道を諦め、ヴァラドンと共にユトリロの絵画に利益を見出そうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立が発生した。4月にフランソワ・ジュルダンの計らいでユトリロはドリュエ画廊にて6点の作品を展示した。リボードはユトリロが利益を彼にもたらしたことで、ユトリロの制作を注文して作らせ制御下におこうとした。
380名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:29:23.17ID:kaxkCU4S0 治療は効果的で、7月末に一家の友人の提案でブルターニュに行くことを医師は認めた。ルイ・リボードはそれを知ると契約内容をユトリロに迫った。ユトリロは提案者である友人リッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルと共にウェサン島で2か月以上休暇を過ごした。そこでもユトリロは絵を描いたが、リボードの提案である「1か月に6枚以上描かない」のため、12枚以下の風景および2点の小さなカルトンしか描かなかった。ヴァラドンは息子の作品のサインを偽造したが、買い手も気づいていた[3]。10月末に全員がパリに戻った。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。
ユトリロはサロン・ドートンヌに参加し、「サノワの通り」と「コンケの通り」の2点を出品した。しかし12月に再びユトリロの健康状態が悪化し、サノワの診療所に再入院した。その結果、1913年の大部分をここで過ごすこととなる。一方で、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品は出品され、ヴァラドンとユッテルは自分たちも各々で展覧会に参加する一方で、ユトリロの発表の面倒も見た。ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、8区のリシュバンス街11番地にあるウジェーヌ・ブロ画廊でユトリロ最初の個展を開催した。この展覧会では1912年から1913年までに制作された31点を1913年5月26日から6月1日まで展示した。しかしこの展示会は失敗し、ユトリロが多作であることが原因だと考えたリボードは、月6点以上描かないようヴァラドンに手紙を送った。日にちは遅れたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカ島に出発した。そこでコルシカ高地のベルゴデールに滞在し、20点ほどの作品を描き上げた。それらはムラト教会、ピエディクローチェ修道院、チント山腹の修道院、コルトの通りなどを描いたものだった。
コルシカ島から帰った直後、ユトリロはヴァラドンを通じて画商のマルセイユと知り合った。マルセイユはリボードの物と比較してユトリロに好条件な契約を提案し、それはすぐに成立した。ユトリロはこの収入でモンマルトルの丘にて酒場を回ったが、その結果再度ルヴェルテガ博士の診療所で治療を受けることとなった。ユトリロは1914年の前半をサノワで過ごし、絵を描き続けた。また買い手も見つかった。
381名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:32:22.58ID:kaxkCU4S0 3月2日には「熊の皮」(La Peau de l'Ours)という競売で、アンリ・ボードワンによって競売にかけられた。リボードはこの時またユトリロたちとの関係を取り戻そうとしたが、かつてとは違いユトリロが外に出ないことを望むようになった。6月15日、ドルーはユトリロの作品をホテル・ドルオに出品するが失敗し、10点もの作品を買い戻すこととなった。この結果と今まで行った過度の干渉によりリボードとヴァラドンとユッテルとの間で決定的な決裂が生まれ、契約が破棄された。この結果ユトリロは安定した収入を失った。彼はルヴェルテガ博士の診療所を出た後軍隊に志願したが、8月29日医学的理由で兵役を免除された。9月1日ヴァラドンとユッテルは結婚したが、その月の末にユッテルは従軍した。ユトリロはまた酒場に入り浸るようになった。この「白の時代」に、ユトリロは数百点に及ぶ作品を残している。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
父親について
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
色彩の時代
この10年間でユトリロは、かつて「白の時代」に使われた光と明暗法の調和によって生み出されるコンポジションの統一感から、硬く乾いた黒い輪郭線で絵画空間を構成したフォルムの幾何学化によってモチーフ間のバランスを保つ「色彩の時代」へと移行した。
ユトリロは1914年の末に暴行と器物損壊で逮捕され、18区の警察に連行された。その後サン=タンヌ精神病院での3週間の拘束の後に、ヴィルジュイフの精神病院に移送された。1915年1月18日に退院したが、その直後軍部によってアルジャンタンに召集された。しかし1月20日に医学的検査の結果「精神病」によって兵役免除となった。ユトリロはセザール・ゲイの店の奥で色彩の調和を探求した。
1915年6月20日、クローが85歳で死去した。ユトリロは一年中絵を描くと共に酒を飲み、騒ぎを起こしたため、休暇中のユッテルに連れられてヴィルジュイフの病院に12月27日入院した。そこでユトリロは10か月以上の監禁生活を送り、1916年11月8日にコラン医師により退院を許された。ヴァラドンは彼女の絵のモデルをしていたガビーという女性とユトリロを結婚させようとしたが、この望みは叶わなかった。この時期ユトリロの作品はより評価されるようになった。1917年5月のベルナイム=ジュヌの画廊で開かれたグループ展にて、彼の作品は数枚出品された。ドルーはリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となり、ポワソニュ街70番地の一室を彼に貸し与えた。
人物像
ユトリロは壮年まではヒゲがトレードマークであったが、晩年はそのヒゲを剃った。
父親について
モーリス・ユトリロの実父については、前述のミゲル・ウトリーリョは養父で、実父は酒飲みのボァッシイという人物という説、シュザンヌがモデルを務めていた画家のルノワールという説など、諸説あり、真偽の程は判明していない。ただし、書類上は母の恋人の一人であるカタルーニャ人の画家・美術評論家ミゲル・ウトリーリョ[注 3]が父とされている。1889年の万博の際、母シュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人であった前述のミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスとの仲を修復した。さらに1891年1月27日、モーリスが7歳のときにこの男に息子として認知され、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓された[4]。しかし、モーリスは生涯この法律上の父に会うことはなかった。なお、母シュザンヌは恋多き女で、ロートレックやサティとも付き合いがあり、その後も資産家のポール・ムージスと結婚し、後にモーリスの友人であり、モーリスよりも年少である画家志望のアンドレ・ユッテルと再婚した。
精神病
8歳の頃母親に連れられて初めて小児科医に診断された。そこで精神薄弱と診断され、専門病院に入れることを勧められるが、プライドの高いシュザンヌはそうせずユトリロは祖母の元に戻ることとなった。ポール・ムージスは1904年初頭、ユトリロを精神病院に強制収容するため地区内の医者のウィレット博士を招き、入院をしやすくするための診断書を書かせた。診断書と2人の証人と共にムージスはクリニャンクール地区の警察署にて署長からユトリロが精神病患者で放置するには危険という旨を宣言する調書を作らせた。ユトリロはそこで留置所の医務室に拘束され、直後にパリのサンタ=タンヌ精神病院に移送された。1903年、サン=タンヌ精神病院(英語版)で初めての自殺未遂を冒した[5]。1904年5月中旬、ヴァロン博士がユトリロの病状が改善し、家族のもとで暮らせるということでユトリロはモンマニーに戻った。
382名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:33:23.80ID:kaxkCU4S0 アルコール依存症
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
ユトリロのアルコール依存症は祖母のマドレーヌにも原因がある。彼女自身も酒飲みであり、一種の精神安定剤として孫に酒を飲ませていた。その結果ユトリロは17から18歳でアルコール依存症に対する治療を始めることになった[6]。また、1904年にユトリロを診察したウィレット博士の手記によると[7]、ユトリロの父親がアルコール中毒、父方の祖母が自殺していると記されているが、前述の通りユトリロの父親は諸説あり判明していない。
ユトリロのアルコール依存は奇行の原因ともなり、1911年4月12日に「公道で通行人に性器を露出した」として恥辱罪で逮捕され、5月10日にパリ市更正裁判所第11法廷により泥酔と猥褻の罪で起訴され、「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」が課せられた。友人で同じくアルコールに溺れたモディリアーニと共に、居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方で、同世代の多くの画家が依存性の強いアブサンを痛飲した中で、彼は赤ワインのみをひたすら飲み続けたためか、精神はともかく肉体的にはほぼ健康であり、71歳の長寿を全うした。
383名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:39:39.39ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
【毒家族に生まれて】“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。
ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。
1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。
「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。
(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。
炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。
(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。
ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。
(画像)1935年 デビュー間もない頃
インドのお嬢様
1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。
父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。
384名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 08:57:46.36ID:kaxkCU4S0 1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。
ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ?
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。
有色人種を祖先にもった英国人
話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。
おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160�pmで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23〜25インチ(約58~64cm)ほど
いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
出自を隠すためひとり取り残されたイギリス
このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7〜8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
385名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:49:00.09ID:kaxkCU4S0 「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは
これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。
家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。
「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」
(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。
「私じゃない誰か」を演じた少女時代
ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。
「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」
後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
女優の道の入り口で結婚・出産
そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。
1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。
ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。 (画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャ人」が祖先であると発言している
ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは
386名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:50:33.65ID:kaxkCU4S0 「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
芝居への情熱が復活
やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。
そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。 この人のようになりたい! 雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。
この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
387名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 09:56:23.92ID:kaxkCU4S0 1935年映画の端役から仕事を始め、同年舞台「美徳の仮面」に出演するとその美貌に注目があつまり絶賛される。ところが子ども時代から培った彼女の芝居力にはそれほど関心を示さなかったマスコミ同様、夫ハーバートはそれでもなおヴィヴィアンの実力を「専業主婦の趣味」程度にしか認識していなかった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
いっぽう、ローレンスは彼女のまだまだ未熟な演技力の中に、恐るべき、天才的なものを見出していた。驚異の読解力と自分の見え方に対する客観的視点。シーンごとにすら全く別の人物を演じ替える豊かな表情。まさに千の仮面を持っていた。何よりも常に今の自分を超え、さらに新しい自分になるべく、向上心を失わない生真面目さが魅力だった。
毎回全力でぶつかるバイタリティ。この娘は大物になる。磨かねば……。
世紀のW不倫カップル
ローレンスは恋人というより、最大の職業パートナーとしてヴィヴィアンを選んだと言っていい。舞台役者の能力もあり、かつ映像作品でも通用する美貌。1937年自身が主演する映画『無敵艦隊』で共演するとヴィヴィアンの可能性を信じた彼は、まだ離婚が成立する前から公然と付き合い、舞台「ハムレット」ではオフィーリア役を始め様々な芝居の相手役に抜擢。2人ともそれぞれの配偶者と離婚が成立していなかったが、“世紀のベストカップル”と英国の業界内では有名だった。
そんなときヴィヴィアンは当時英国でもベストセラーになっていたマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』を読み主人公スカーレット・オハラに夢中になっていた。映画化にあたり主演女優探しが難航していると耳にするや、ハリウッド進出を進めていたローレンスと計画。映画監督でプロデューサー、マネージメントも手掛けるアレクサンダー・コルダを通じプロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックの兄、マイロンと会う機会を作る。
娘を棄ててもぎとったスカーレット役
こうしてあの運命の炎上シーンの夜まで完璧に演出したヴィヴィアンは、英国人起用に乗り気でなかったセルズニックを説得。当初、彼女を見くびっていた監督ジョージ・キューカーとの面接では台本無しでテストに応じ、そのあまりの臨場感に言葉を失わせたと言われている。
ハリウッドへの進出。それは離婚を拒否し続ける、夫ハーバートからの逃走でもあった。置手紙と幼い娘を残しヴィヴィアンは世界的女優の道を歩むため、米国に渡った。
役を勝ち取るまでにすでにスカーレット役を完成させていた彼女にとって、実際の撮影はいわば消化試合だった。女優を主演させたら右に出るものはいないキューカーとの相性は良く、撮影は順調すぎるほどに進んだ。ところがあまりの相性の良さに腹を立てたのがレット・バトラー役のクラーク・ゲーブル。自分が引き立てられていないと、セルズニックに訴えた。仕切り屋で脚本まで自分で担当した割には撮影前日になっても書き終えられないセルズニックは、キューカーと対立していた。そこでふたりは共謀し、監督をキューカーと真逆のマッチョなヴィクター・フレミングに無理やり替えてしまった。
消化試合のはずが、やたらと面倒臭くなる撮影。キューカーと組み立てた演技プランと正反対の、フレミングによる安っぽく性格の悪いスカーレット像。そしてフレミングによるセクハラ。1日16時間も撮影しているのに、遅れる進行。生来の生真面目さ、潔癖さが重なり焦燥感が募る。映画の評判のために「不倫相手」オリヴィエと会うことを控えていたこともストレスになった。そのせいでみるみるうちにやつれていき、最後は映像に影響が出てしまったため、セルズニックも仕方なくオリヴィエと会うことを許すことになった。
388名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 10:00:29.59ID:kaxkCU4S0 最初のアカデミー主演女優賞
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。 彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
この難局を乗り切り、第12回米国アカデミー賞でヴィヴィアンは主演女優賞、ハティ・マクダウェルは助演女優賞、レスリー・ハワードは助演男優賞を獲得した。
翌年、夫と離婚。オリヴィエの離婚も成立し晴れて正式に“世紀のカップル”が誕生する。
(画像)1939年アカデミー賞にて、セルズニックと。当のクラーク・ゲーブルは主演男優賞を逃した
しかし、彼女の新たな苦難がこの結婚から始まる。ローレンスとの長く苦しいライバル関係だ。 クラーク・ゲーブルも、2度目のオスカーを彼女が獲得したときマーロン・ブランドも主演男優賞を逃したことが証明しているように、脇にいるとどんな才能ある男優も若干かすんでしまう。見ているものを安心させず目を逸らさせない脆く繊細な表情。確実に美人だが、誰とも比べられない存在感に観客は引き込まれてしまうのだ。 彼女が『風と共に去りぬ』でオスカーを獲得したとき、ローレンスも『嵐が丘』でノミネートされていたが、受賞は果たせなかった。翌年もヒッチコックの伝説的スリラー『レベッカ』で候補となるも再び獲得ならず。ヴィヴィアンが「あのオリヴィエの妻」と言われた時はよかった。しかしアメリカの一般市民の間で「あの映画スター、ヴィヴィアン・リーの夫」として認知が広まっていたことはローレンスにとって歯がゆいことであったことは間違いない。
すると以前から口にしていた「映画スターとはくだらない存在。一流の俳優でなければ」という持論を妻ヴィヴィアンに刷り込んだ。それは初ノミネートで初受賞を果たしてしまった彼女にとって、一種の悪意と言える。ローレンスは彼女のスター性を否定しにかかったのだ。生真面目なヴィヴィアンは見事に洗脳され「スターではなく俳優に。映画俳優ではなく舞台俳優で活躍せよ」と夫のプレッシャーを内在化させるかのように、こう語っている。
「私は映画スターではありません。私は女優です。映画スターというのは、見せかけの価値やら宣伝やらのために生きる、偽りの人生なのです」
こうして彼女は映画出演を控えてしまう。ここでも自分を否定し、舞台俳優として一流になることを目指す。
“上司”である夫に支配されて
ローレンスとヴィヴィアンはいわば夫婦ではあったが、関係性は上司と部下だった。自分を脅かさないように部下の決定的チャンスを奪うのが上司の必然であるのと同様に、夫は彼女の映画出演をほぼ自分との共演に制限し、彼女が自分を超える存在になることを阻んだ。さらに自分の創る舞台に出演させた。
もちろんマネージメントは他にいたが、まっすぐにローレンスを愛し、尊敬していたヴィヴィアンにとって最も重大な行動規範は夫の意見だった。
結婚から10年を経てもそれは変わらず「ラリー(ローレンス)が『私の脚は太すぎる』って言うの」とつぶやいたことを衣装デザイナーのルシンダ・バラードが告発している。
389名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 10:02:31.18ID:kaxkCU4S0 ヴィヴィアンが映画スターになるとローレンスは監督業で成果を挙げる。妻の仕事を制限するいっぽうで妻が何か成功するたび、夫は当て付けるように新しいことにチャレンジし、その度に上から新しい課題を提示する。ヴィヴィアンは舞台にメインの仕事の場を移していくが、彼女には舞台俳優として大きなコンプレックスを抱えていた。声の小ささだ。ときにはそれを批評家にあげつらわれ「彼女の声の小ささが偉大な夫ローレンス・オリヴィエの脚を引っ張っている」とまで書かれた。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
こうしてヴィヴィアンは現状の自分を肯定する暇を与えられなかった。ローレンスの行動は「飽くなき向上心の喚起」と言えば聞こえはいいが、絶え間ない自己否定の強要であったことは容易に想像がつく。
それが大変なストレスだったことを物語るエピソードがある。舞台上では異様な量の汗をかいていたとも言われるヴィヴィアン。それでも懸命に役を演じ続けた1947年、40歳にしてオリヴィエが叙勲されナイトの称号を得た時、彼女は怒り狂ったという。すぐさま夫を称賛する「妻らしい行動」を演じ直したのだが……。
これこそが躁うつの証拠かのように語られてきた。が、現代なら当然の行動としてそのフラストレーションに共感する人も多いはずだ。病ならずとも怒りが爆発してもなんらおかしくない。
そんなヴィヴィアンはナイトの妻が自動的に“付与”されるレディ、つまり「レディ・オリヴィエ」と呼ばれることを嫌った。
溢れ出る才能を柔らかな鳥かごの中に閉じ込められ、夫に追い立てられるように常に「自分ではない自分」を目指して「青い鳥」を追い駆けるヴィヴィアンは、心のバランスを明らかに崩していく。ただでさえ、演じることは「自分以外の誰かになること」。ストレスがストレスに覆いかぶさっていく。
心を病む日々に出会った伝説の役で2つ目のオスカー獲得
精神を崩し、双極性障害が隠しきれなくなった頃、ヴィヴィアンは再び映画の世界で運命の役を引き寄せる。テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワだ。この役を彼女が演じられたのは幸運だった。ヴィヴィアンのハリウッド映画出演を快く思っていなかったローレンスだったが、ちょうどこの頃立ち上げた制作会社のための資金が必要で金に困っていた。そのため、高額のギャラに飛びついたのだ。
ブランチはスカーレット・オハラと同じく高慢な南部女性。しかし、スカーレットと違うのは、ヴィヴィアン自身を投影したかのような、脆い精神のバランスの上に立つ点。夫ローレンスと同じく、辛い仕打ちをしながらも愛情のようなものを見せる男と別れられずにいるブランチ。同性愛者の夫から離れ、性的に乱れ、崩壊していく女性の姿は、“美しきハリウッド・スター”の片鱗を微塵も感じさせない。とくに鏡の前で化粧をするシーンは衝撃で、のちに多くの作品によってオマージュが捧げられる伝説となった。
(画像)1949年、ロンドンでの舞台版『欲望という名の電車』。映画では夫のホモセクシャリティ設定は外された。
ところが、既に舞台でブランチ役を演じていた彼女にとって、映画版『欲望という名の電車』(‘51)はお手の物。だが、ここでヴィヴィアンと監督のエリア・カザンがトラブルになる。彼女は監督を非常に尊敬していたにも拘わらず、演技の方向性で対立した。その原因はローレンス。ロンドンで同作の舞台化を経験していた彼は、撮影所から家に帰ってきた妻に勝手に演技指導していたのだ。これに気付いたカザンは夫によるアドバイスを禁止。その結果、撮影は順調に進み、ヴィヴィアンは再びアカデミー主演女優賞を受賞した。
この作品で彼女は2度目のオスカーを手にしても、すでに病んで久しかったこともあり、さして喜びはしなかった。また、結婚生活も破綻していた。ローレンスにとっても、彼女の夫婦生活は辛いものとなっていた。
オリヴィエはこの作品の相手役、マーロン・ブランドを含めた男性たちとも浮名を流しており(3番目の妻ジョーン・プロウライトも後にふたりの関係を証言。だがよく知られるダニー・ケイとの関係は彼女の発言を曲解した噂だとされている)、ひたすらヴィヴィアンは彼を尊敬し続け、愛されたいと願ってはいたが、リーも4歳年下の俳優ジャック(ジョン)・メリヴェールとの関係を始めており、形式上の夫婦だった。
390名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 9a47-hQ4V)
2026/11/06(金) 14:01:33.45ID:kaxkCU4S0 度重なる不幸
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985
ヴィヴィアンの病状はさらに悪化。混乱した意識の中での発言を拾われ、演じた役の卑猥さ、報道される理解しがたい行動から「ニンフォマニア」と書き立てられたこともあった。さらに、オリヴィエの子を流産したこともあり、精神も身体もどん底に陥る。休養が必要だったが、それでも演じることは止めなかった。彼女にとって自分以外の誰かになることが認められる手段であり、演じることが生きる糧だったからだ。
「私はさそり座。さそりって闘争心で体力を使い果たして、自分の身を滅ぼしてしまうでしょう。自分自身に無頓着なの」
心配した母ガートルードは、折に付け元夫ハーバート・リー・ホフマンに相談。ヴィヴィアンも良き友人関係を続けていた。しかし、成長していく娘スザンヌを目の前にするとどうしてもギクシャクしてしまうことに、ストレスを感じないわけにはいかなかった。
それ以前に、ハーバートもまったくの善き隣人ではなかった。作家アン・エドワーズは、元夫はヴィヴィアンに「なんの恨みも抱いていなかった」と書いているが、ハーバートはガートルードに送った手紙で「彼女が私にした仕打ちと同じことを今、オリヴィエがしているのだと彼女に認めさせなければ」と訴えている。精神的な解決になるとしても、彼女の才能も情熱も否定した夫のこの言葉が本当に善意だと言えるだろうか。
“世紀のカップル”の破局
そうして1960年、夫ローレンスがジョーン・プロウライトと公に交際し始めたことで、20年の結婚生活に終止符が打たれた。
すると、ヴィヴィアンはその後『ローマの哀愁』(‘61)で久々に映画に出演、1963年にはブロードウェイ・ミュージカル『Tovarich』に主演し、歌とダンスを披露。トニー賞ミュージカル主演女優賞を獲得。翼を広げていった。
そうして1967年7月8日の夜がやってくる。恋人のジャックが舞台を終え帰宅し、寝室を覗くとヴィヴィアンは休んでいるようだった。だが、15分ほどして嫌な予感がした彼が、再び寝室に入りベッドに近寄ると、カーペットの上でうつ伏せで倒れているヴィヴィアンを発見する。床には大量の血がにじんでいた。死因は肺結核を原因とした大量喀血による窒息死。彼女はこうして突如旅立った。
彼女には生涯克服できないコンプレックスが2つあった。それは先述の声、そして手だ。舞台では「声が小さい」と批判され(実際『美徳の仮面』が最終的はヒットとならなかったのも声が理由とされる)、華奢な身体と比べ大きな掌は、常に手袋で隠していた。それは白人社会で成功を掴むため、変えられない自分の出自を恥じ、隠さざるを得なかった彼女の家族と重なる。
自分を否定し、自分以外の誰かになることを生涯追求させられたヴィヴィアンの人生。奇しくも俳優の能力としてそれが活かされたことこそが彼女の最大の幸運にして最大の不運だったと言えるだろう。彼女の天才的な芝居をフィルムで目にする時、その不運の欠片が稀有な演技として花ひらいた瞬間を私たちは見ている。
【参考文献】 『Dark Star : A Biography of Vivien Leigh』by Alan Strachan,2019 『Vivien Leigh』by Anne Edwards, 1977 『Confessions of an Actor: Laurence Olivier an Autobiography』by Laurence Olivier, 1985
391名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM06-81CF)
2026/11/06(金) 19:08:10.84ID:Fxr37KAhM ( ´,_ゝ`)プッ 3266
392名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM06-81CF)
2026/11/06(金) 23:15:10.64ID:hoNfT3YzM ( ´,_ゝ`)プッ 7898
393名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM06-81CF)
2026/11/07(土) 18:15:01.65ID:uRGAqCYqM ( ´,_ゝ`)プッ 7785
394名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW 0b1e-pmHX)
2026/11/07(土) 21:08:10.02ID:/m/xUz4z0 さすがボッタクリ価格でパワーストーンを売るしか能がない天川と観音であった。たいした活躍もできずにミジメよのぅwww
395名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM6b-rXbC)
2026/11/08(日) 02:53:31.96ID:31TSaqsjM ( ´,_ゝ`)プッ 8111
396名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM6b-rXbC)
2026/11/08(日) 12:08:26.89ID:8IGWOqTlM ( ´,_ゝ`)プッ 4135
397名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM6b-rXbC)
2026/11/08(日) 17:56:34.04ID:8ZqxGrLNM ( ´,_ゝ`)プッ 9534
398名無しさん@実況は禁止ですよ (ベーイモ MM6b-rXbC)
2026/11/08(日) 20:15:31.45ID:1f8W97RpM ( ´,_ゝ`)プッ 3076
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2026/11/09(月) 05:17:38.08ID:rM7AsLEhM ( ´,_ゝ`)プッ 1613
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