我々が日常の系において遭遇する、大量生産の自動化ラインから吐き出される低コストな和菓子や、商業施設の片隅に雑多に集積された安価な生菓子、あるいは利便性を至上命題とした流通拠点で供される大福という名の簡易的代替物について、私はその実存を全否定するものではない。それらは刹那的な糖分補給という即物的な要求を満たす機能において一定の合理性を有しており、私自身も因果の巡り合わせによってそれらを好意的に摂取することはある。しかしながら、そうした大雑把なコストカット優先の製法で精製された不純な餡と、職人が実直に熱力学的な煉りの儀式を施した「至高の餡」とでは、構成元素の選定から舌触りの滑らかさに至るまで、その品質の格差(ディメンション)が客観的に見ても明らかなほど決定的に違っている。さらに言えば、全体の甘みの輪郭を峻烈に引き締めるために、隠し味として仕込まれている塩の結晶の調和も、計算され尽くした絶対的バランスで完璧に効いているのだ。
このような繊細なクオリティの差異について何一つとして感知することなく、ただ口腔という名の深淵に食物を放り込み、脳筋のまま知覚の解像度ゼロで貪り喰らっているだけの、質より量、あるいは単なる満腹感しか重視しない下品な有象無象にとっては、この職人技の結晶も単なる「無駄に価格設定が高いだけの食い物」という、あまりにも浅薄な認識にしかならないのだろう。実にもったいない話だが、それが彼らの精神的境界線(限界)なのだ。そもそも、この餡が体現しているクオリティの階梯というのは、何も世界の果てに名を轟かせるような大仰な超高級店をベンチマークしているわけではなく、古くからこの土地の因果に根ざして結界を守り続けている、町の老舗の、少し名の知れた和菓子屋が毎朝実直に仕込んでいる極めてベーシックな水準に過ぎない。しかし、その最低限の「本物」すら日常的に口にする機会を持たない、あるいはあえて選ぼうともしない文化的・経済的に困窮した奴らにとっては、この絶妙な塩梅など逆立ちしたところで生涯理解不能な領域なのであろう。
日頃の生活の質や、いかなる精神的土壌で育ってきたかという人間の本質は、こういう何気ない味覚の選択においてあまりにも残酷なほど如実に露呈してしまうものだ