森友学園や教育勅語の問題など昨今、自称“愛国者”たちが騒がしい。その言動は“健全なナショナリズム”の範疇を逸脱し、逆にこの国を歪めてはいまいか? この国の形を改めて考える――

◆声高に叫んだり、カネ儲けに使った瞬間、愛国心は偽善的なものとなる

我が国で自国愛を強調しすぎている人たちを見掛けると、なぜ違和感を持ってしまうのだろうか。愛国心やナショナリズムに詳しい、法政大学の津田正太郎教授に聞いた。

「日本の場合は戦後から実態はともあれ、国民の多くが単一民族国家という意識になり、『日本人』と言っただけでどうしても排他的に聞こえてしまう面があります」

 ナショナリズムには制度や規範を重視する「シヴィック・ナショナリズム」と血縁や民族的出自を重視する「エスニック・ナショナリズム」という考え方がある。前者の代表的な例としてアメリカ、後者の例に日本が挙げられる。

 米国では民族の同質性よりも星条旗に忠誠を誓えるかどうかが重要視され、日本では同一民族であるかどうかが何よりも重要となる。

「ただ、日本だけでなく世界的な傾向として血縁や民族性が愛国心やナショナリズムと結びつき、ヘイトスピーチなどの排外主義運動に繋がるケースもあります。生まれや出自などエスニック的要素だけではなく、『日本人とは何か』を再定義することが今は必要になっているかもしれません」

しかし、愛国心とナショナリズムにも肯定できる部分があると津田氏は指摘する。

「極端な愛国心とナショナリズムに問題はあります。しかし、多くの国民が五輪で日本を応援するといったような行動は必ずしも否定できないはずです」

 18世紀の英国の文学者、サミュエル・ジョンソンは「愛国心はならず者の最後の隠れ家」という有名な警句を残した。そのまま読むと、愛国心を否定しているように聞こえるが、実際はそうではないと津田氏は言う。

「彼の目から見て批判したのは愛国者を偽って金儲けをしている人たちのことです。真の愛国者は金儲けに愛国心を利用しなかったと彼は言いたかったはずです」

 そもそも目には見えない愛について、ドイツの政治哲学者、ハンナ・アーレントも「公の場で愛を語った瞬間、愛は死に向かう」という趣旨の言葉を残しており、愛と同様に愛国心も公共の場に持ち込んだ瞬間、偽善的になると指摘している。

 愛国心とナショナリズム自体は危険ではない。それが過剰になったり、公の場で声高に叫ぶことで危険な考えに変わってしまうのだ。
なぜ「自国愛を強調しすぎている人たち」に違和感を持ってしまうのか?

2017.5.13
https://nikkan-spa.jp/1326799