――『主に泣いてます』から原作があるものを手がけていますが、原作本は繰り返し読まれるんですか?

野木 繰り返しは読まないです。原作を脚色する時って、一度原作を忘れた方がいいと思うんですよ。忘れないと再構築できないので。物語の根幹を理解して、印象的なセリフや大事なシーンを頭に入れてさえいればいいんじゃないかと。
初稿を書いたあとに確認の意味で、解釈や表現が間違っていないかをチェックするために細部を見返したりはしますけどね。セリフの扱いもまた難しくて、ここは原作のセリフをそのまま使ったほうがいいなというところはもちろん使うんですけど、活字で読むならいいけど音で聴くとわかりにくいとか、
ドラマのこのタイミングでは伝わらないとか、下手すると全体の中で浮いたり成立しないっていう局面も出てきたり。結局、重要なのはパーツではなく、作品の哲学を曲げないようにすることなんじゃないかと。

――だから、野木さんの作品を見るとすごいファン目線な感じがするんですよね。

野木 ファンじゃないと原作ものってやっちゃいけないと思うんです。同時に、すべて神聖視してしまってはいけなくて、客観視はしなきゃいけないと思うんですけど。映像作品のベストを尽くさなきゃいけないから。ただ、やっぱりまずファンで、リスペクトしてないと触っちゃいけないと思うし、「そこを変えたら意味なくない?」「だったらやるなよ」って思っちゃうんですよね。作者や読者がいることなので、やるからには気を遣うべきだし、じゃなきゃ触っちゃいけないし。

――原作があると難しいかもしれないですけど、当て書き的な部分というのはあるんですか?

野木 原作ものでも当て書きはしますね。そこはある種の割り切りで。だって、二次元どおりにいかないし、役者だって二次元の真似をしたいわけじゃないし。中には原作を読まないっていうこだわりを持っている役者さんもいて、それも間違いではないと思うし。こちらはこちらで実写としてのその役を作っていくしかない。なので作業としては、原作ファンが見た時にできるだけショックがないようにというか。初めはちょっと違うと思ったとしても、見ているうちに「ありかな」と思えてくればいいかなと。全く同じにはどうしてもできないんですよね。セリフ1つとっても、漫画のセリフと実写のセリフは違う。あと、演じる役者さんによってイメージはどうしても変わってきてしまうので。原作を下手にトレースするよりも、役者に合わせてイメージを近づけるようにするほうが成功する場合もあるんじゃないかと。

――オリジナル脚本と原作もの、どちらがやりやすいですか?

野木 一緒ですね(即答)。漫画や小説の構成とドラマや映画の構成って全く別なので、オリジナルだろうが原作があろうが、結局イチからプロットを組まなきゃいけないですから。この間、岡田(惠和)さんのラジオに出させてもらった時も「苦労は同じですよね」「原作があるとラクしてると思われちゃうけどね」って話をしたんですけど。確かに原作ものは、根幹ができあがっているラクさはあるけれど、原作がこうだからできないって部分もあって、壊さずに面白いドラマをつくるためには針の目を通すように考えなきゃいけない苦しさがある。二次元と三次元の表現の違いもあるから、なんの工夫もなくそのまま実写にしたら成立しない部分も沢山あったりして。

――いま、ドラマにせよ映画にせよ、全体が原作ものばかりになってしまっている現状をどう思われますか?

野木 やる意義があればいいんじゃないでしょうか。実写化によって新たな世界が広がるとか、単純にこの作品が好きだから映像化したいとか、そういうモチベーションがあれば。ただ、「なんでもいいんで、こういうキャストにハマりそうな漫画ください」と出版社に言っちゃうようなのは、さすがにちょっと違うんじゃないかなと。作品にも失礼だし、不幸しか起こらないと思ってしまいますね。

 でも、究極的に言えば、原作ものだろうがオリジナルだろうが、世の中に面白いドラマや映画があふれるのならそれでいいとは思うんですよね。元は何だって、視聴者にとって実はあんまり関係がない。例えば、『逃げ恥』の原作が漫画だろうが何だろうがどうだっていい人たちは山ほどいて、脚本家が誰かだってどうだっていい人たちも、それこそ山ほどいるわけですから。

(抜粋。全文はソースにて)
http://bunshun.jp/articles/-/1886?page=2