マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie、1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーともいう)。キュリー夫人(Madame Curie)としてである。

1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し[1][2]、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルド(1872年 - 1946年)からキュリー研究所を与えられた。
放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案による

生誕時の名前はマリア・サロメア・スクウォドフスカ(スクロドフスカ[4]、Maria Salomea Skłodowska)。
父ヴワディスワフ・スクウォドフスキ(ドイツ語版)(スクロドフスキー[4])は下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者である[5]。父方の祖父ユゼフ・スクウォドフスキ(ポーランド語版)も物理・化学の教授であり、ルブリンで若いころのボレスワフ・プルスも師事した[6]。母ブロニスワヴァ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校(ボーディングスクール)の校長を務める教育者だった[5][7]。
マリアは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア(1862年生)、ブロニスワヴァ(英語版)(母と同名、1865年生)、ヘレナ(英語版)(1866年生)、兄ユゼフ(ポーランド語版)(祖父と同名、1863年生)がいる。その中でもマリアは幼少のころから聡明で、4歳のときには姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった[7]。
しかし、当時のポーランドはウィーン会議にて分割され、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった[4]。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリアが6歳のとき、父ヴワディスワフが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワヴァも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり[8]貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1876年に生徒が罹患したチフスが一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。それから2年後の1878年5月9日、母ブロニスワヴァが結核で他界した。10歳のマリアは深刻な鬱状態に陥り[7]、母に倣ったカトリックの信仰を捨て[8]、不可知論の考えを持つようになったという[9]。
家庭教師のキャリアと破れた恋
1883年6月12日にギムナジウムを優秀な成績で卒業した[10]。しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった[11]。父は、マリアを1年間、親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した

その後ワルシャワに戻ってチューターなどを務めていたが[13]、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学(英語版)(ワルシャワ移動大学[10])」で学ぶ機会を得た[13]。そのころ、姉ブロスニワヴァがパリで薬学修学のために貯金をしていたため、マリアは申し出て働き、姉を援助することを決めた[13][14]。1885年からマリアは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフ(英語版)で農業を営む父方の親戚筋にあたるジョラフスキ家でガヴァネスとなった[13]。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジミェシュ・ジョラフスキ(英語版)が惹かれ、ふたりは恋仲となった[15]。しかし、カジミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された[16]。彼女は失意のまま契約の2年間を終えると[15][17]チェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた[18]。
1890年3月、数か月前に医師カジミェシュ・ドウスキ(ポーランド語版)と婚約した姉ブロスニワヴァがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリアに届いた[18]が彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジミェシュ・ジョラフスキを忘れられずにいたことが理由であった[18]。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン近郊のクラクフ郊外通り(英語版) 66にある農工博物館(英語版)の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキ(ポーランド語版)が管理しており、またロベルト・ブンゼンに学んだナポレオン・ミリサーも彼女を指導した[10]。