次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った[注釈 13]。当時の居室は現在もなお、当時の状況をとどめ森鷗外記念館として公開されている。
9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった[注釈 14]。
会議を終えた一行は、9月28日にオーストリア=ハンガリー帝国首都ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、鷗外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツ『戦争論』を講じた。留学が1年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。
同年7月5日、鷗外は石黒とともにベルリンを発ち、帰国の途についた。英国首都ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い、詩を4首贈った)やフランス首都パリに立ち寄りながら、7月29日にマルセイユ港を後にした。
9月8日に横浜港へ着き、午後帰京。同日付で陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在1か月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[注釈 15]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることはなかったとされる[14]。鷗外はドイツ留学中のことを「獨逸日記」に記している。