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【天川龍一】龍粋社【坂本観音】part7

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2026/07/12(日) 10:52:18.27ID:/udxSs0B0
龍粋社について語りましょう
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2026/07/12(日) 10:56:31.06ID:jBaKSmrX0
政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は助命を願うが許されず、由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。

同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。
奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。
建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れている。
建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのため頼朝は喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている[12]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[13]。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。その後頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きている。『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝がこれを聞いて猜疑にかられたためとしている。
大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。
建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局や源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。
次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御の宣旨を受けるが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。
3名無しさん@実況は禁止ですよ (ワッチョイW f604-lJvO)
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2026/07/12(日) 10:57:35.41ID:jBaKSmrX0
長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれる。三幡の入内工作は続けられたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。
若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。だがこれについては13人全員で合議された例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある。
その後、頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』にこの事件が特筆されている背景には、頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を正当化する意図があるものと考えられ、事実ではなく創作ではないかと疑う見解もある。
頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されたという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。
『吾妻鏡』によると頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだとされる。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。
建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼした。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修禅寺に幽閉されて翌元久元年(1204年)に死去した。
だが比企氏滅亡や頼家の死に関しても鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀は北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子が押さえ付け、修禅寺に押し込めた。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたという。また頼家の死についても『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。
頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこれを阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。
実朝は文人肌で、朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇も期待して実朝に昇進を重ねさせた。しかし公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、また和歌や蹴鞠に傾倒して武芸を顧みない実朝への不満が御家人の間で募っていった。そのような中、政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。
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2026/07/12(日) 10:58:50.24ID:jBaKSmrX0
建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき卿二位(藤原兼子)と対面している。この上洛で卿二位の斡旋によって政子は従三位に叙されている(4月15日。同年10月13日には従二位に昇叙)。『愚管抄』には、このとき卿二位が、病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子で自身が養育していた頼仁親王(実朝の妻西八条禅尼の姉・坊門局(西御方)の子)を東下させることを政子に持ち掛けたという噂が記されている。また後鳥羽上皇より対面するよう政子に仰せが下ったが、政子は辺鄙の老尼が龍顔に拝するなど益も無いことなので仰せには従えませんと返答して、諸寺参拝を切り上げて急ぎ鎌倉に帰った。同年12月、実朝は右大臣に登った。義時や大江広元は分不相応であると諫言したが、実朝は従わなかった。
建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子は深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

尼将軍
実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「いずれ必ず下向させるが、今はまだその時ではない」と返答した。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」と考えていたという。一方で上皇は使者を鎌倉へ送り、上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時は幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇は皇子ではなく人臣であれば摂関家の子弟でも鎌倉殿として下して構わないとしたため、義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。
承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の官宣旨を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表し、御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとしているが、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。
軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。
後鳥羽上皇は官宣旨の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の官宣旨を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。
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